私は燃えさしだった (上)


  
  
  
  
                                              ザカリア3章1-10節


                                 (序)
  今日は、50年前の4月26日に仲宿で板橋仲宿伝道の祈り会が開かれてから丁度50年になります。信濃町教会が行なった開拓伝道は、50年前のこの日をもって具体的に開始されました。ですから、創立記念礼拝は5月に致しますが、今日は紛れもない教会の誕生日になります。

                                 (1)
  さて、今日は余り取り上げられない箇所を選びました。イエス様の500年程前の時代です。当時、世界は大きく変化して、バビロニア帝国が滅び、現在のイランに首都を置くペルシャ帝国が勢力を伸ばし、クロス王に継いでダレイオス王が王位にありました。アレキサンダー大王が登場する150年程前のことです。

  イスラエルは既に北王国も南王国も滅ぼされ、70年間、数世代に亘ってバビロニアで捕囚になり、過酷な強制労働を強いられて苦しんでいました。その時代に、まだ若い預言者ゼカリヤが登場して、やがてイスラエルの民がエルサレムに帰還し、神殿を再建することを許されると預言したのがこのゼカリヤ書です。

  ゼカリヤ書には8つの幻が出てきますが、先ほど読んで頂いたのは第4番目の幻でした。そこには、エルサレムを象徴する大祭司ヨシュアが、主の御使いの前に立って、サタンから責められようとしている場面が出てきます。

  しかし、御使いはサタンに向かって、「サタンよ、主はお前をこそ責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは、火の中から取り出された燃えさしではないか」と語ったというのです。

  サタンは、神と人との間を裂く者です。人と人の間も仲たがいさせ引き裂く者です。人を陥れる者です。私たちがもし人の間を裂き、人を陥れる者として責めているなら、私たちはサタンではありませんが、サタンにたぶらかされていると思っていいでしょう。誰しもそうなりやすい私たちです。自分に用心しなければなりません。

  「燃えさし」とは、一旦、火で燃やされたが、燃え切らずに残った燃え残りです。燃えさしはもう殆ど役に立ちません。しかし、エルサレムを代表してヨシュアは神の厳しい審判を受けたが、焼き尽くされる前に神の憐れみによって取り出されたということです。燃えさしが神に用いられるためです。人の目にはもはや役に立たなくなった者ですが、神が用いようとしておられるのです。

  去年から、時代の流れが非常に早くなっています。この急流を乗り切って活発に活動している人たちもいますが、流れに流されて漂流している人たちも多数出てきています。私は先週、九州のA教会を訪ねました。お気づきのように、そこから出戻りの孫を連れて来ましたので、申し訳ありません。またしばらく御迷惑をおかけします。コブつきで帰って来ましたのは、母親が万一の場合命の危険があり、絶対安静を命じられたからです。

  時間のあるときその田舎町を歩きましたが、地方は東京どころではありません。大変疲弊しているという感じをもちました。殆ど仕事がないようです。町の中を澄んだ川が流れ、小鮒が無数に群れをなして泳ぎ、自然はいいのですが経済は厳しいです。

  一時、燃え尽き症候群という言葉をよく聞きました。最近余り聞きませんが、経済不況のために、今こそ燃え尽きる人たちが多く出ている筈です。教会の建物のことで見積もりを出してもらったので、業者の人に連絡を取ろうとしていたのですが、連絡が中々取れませんでした。連絡が取れて分かったのは、その営業マンは長期欠勤していました。いつ出勤できるか分からない状況のようです。

  過当競争の中で、教会も一役買って、一人の中年の営業マンを燃え尽き症候群に追い込んだかも知れません。人物的に非常に人柄がいい人でした。もう一つ別の会社の営業マンは、若いけれど鼻っ柱の強い、燃え尽きるどころか、したたかにのし上がって行くに違いない、口のうまい、こちらに押して来たり、かと思うと巧妙に引き下がったりする若者でした。なるほど、こういう人が燃え尽き、こういう人がのし上がって行くのかと思いました。

  病欠している人は家族もおありでしょう。病院に入ったか家庭療養しているか、その営業マンが、早く良くなって、燃え尽きでなくて、「取り出された燃えさし」になってまた働いていただきたいと思いました。この人は、礼拝に出てもいいかと尋ねたことのある人でした。燃えさしであっても、神は新しく起用される方ですからぜひ再起してもらいたいと思います。

  さて、3節には、「ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた」とありますが、罪に汚れたエルサレムの姿、また神の審判を受けたエルサレムの悄然とした姿がここにあります。しかし今、御使いは厳然とした態度で、追い撃ちをかけんとするサタンに、エルサレムは燃えさかる主の烈火によって激しく焼かれた燃えさしである。エルサレムはもう十分に懲らしめを受けたと語るのです。

  そう語って、自分に仕える者たちに、「彼の衣を脱がせてやりなさい」と命じ、ヨシュアに対しては、「私はお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい」と語り、更に、「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい」と命じたというのです。すなわち名誉回復のしるしが与えたのです。

                                 (2)
   ここを読む私たちは、ルカ15章に出てくる「放蕩息子の譬え」を思い出します。彼は財産をすっかり使い果たし、「私はもう、息子と呼ばれる資格はありません。奴隷として雇ってください」と父親に、戻って来て申し出ます。

  ところが父親は、「晴れ着を持って来させ、手に指輪をはめさせ、足に履物を履かせてあげなさい」と命じました。

  晴れ着は愛する息子の印です。履物は人としての尊厳です。指輪は、父の財産権を象徴するものです。父は既に、2人の子ども達に財産を分け与えました。ところが、放蕩のためにすっかり使い果たして帰って来た次男に、自分に残っている財産権を象徴する指輪をはめたのです。

  ということは、彼を赦し、再び息子として迎えたという事です。神から離れて生き、神から授けられた折角の賜物を浪費し、すっかり落ちぶれダメになった人間。神との関係を自分の方から断ったために、生きる意味を失い、行き詰まってしまった人間。この世的な地位はどうあれ、自分はどこから来てどこへ行くのか、存在の根拠を失った人間。それが放蕩息子の譬えが語るところです。

  自分は救いに価する立派な人間だといえる人があるでしょうか。私たちは罪のために神から離れ、滅びそうになっている存在です。しかし、主の憐れみによって、「私の子よ」と語って神の子として愛されるのです。神は私たち一人ひとりに、「あなたは価高く、貴い」と語られます。「燃えさし」をここまで貴く扱って下さる愛の神に心を留めたいと思います。

  燃えさしであっても、まだ灰になっていません。神は、「燃えさし」からでも新しい芽を出させられます。神には不可能はありません。アブラハムがそうでした。彼は、「望みなき時も、なお望みつつ主を信じた。」そしてイサクを授けられます。

  ゼカリヤ書3章にあるのは、大国によって滅びてしまい、歴史の中に消滅しそうになっている主の民イスラエルです。だが、その燃えさしのような民から、新しい希望の光が生まれるという事です。

  1章前のゼカリヤ書2章11節に、「あなたたちに触れる者は、私の目の瞳に触れるものだ」とあります。イスラエルは、悔い改めることなく、頑なな罪のために神様から砕かれ、火のような裁きを受けました。だが、裁きを受けても、彼らはなお神の瞳です。これに触れる者は、神の瞳に触れるのであり、ただでは済まされぬ、と言うのです。

  私たちも同様です。「この指を釘跡に入れてみなければ…、決して信じない」とまで難癖をつけたトマスにも、「お前などは不信仰者だ。汚れた人間だ。去れ」と言われませんでした。むしろ「平和があるように」と言って入って来られました。選んだ者を、神は極みまで愛し、再起させんと骨折られます。ですから、私たちは主の愛の奥深さ、入念さに目を向け、今日という日を、私たちも隣人への愛をもって生きたいと思います。

            (つづく)

                                   2009年4月26日

                                       板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;金色に映えるヴェズレーの聖マドレーヌ教会。)