涙と共に種まく人 (下)


  
    
  
                                              Ⅰペトロ2章3-5節
                                              詩編126篇5-6節

                                 (3)
  先ほどの詩編126篇5、6節は、今年の年間聖句に一つとして選ばれました。「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

  これは種まきの苦労と喜びの収穫の歌として有名です。しかし、これは教会を作り、教会を建て形成していくことについても語っていないでしょうか。それだけでなく、あらゆる事柄において、一から建設し、それが実を結ぶまで持ち運んでいく涙と労苦、そして完成の喜びに適用するのではないでしょうか。

  かつて私はここを読んで、どうして泣きながら出て行った人が、戻ってくる時には、束ねた穂を背負って喜んで帰ってくるのか、分からなかったことがあります。これは一息で言っていますから、誤解したのです。実際には季節のズレがあります。泣きながら出て行ったのは、種まきのシーズンです。それから数ヶ月して、収穫のシーズンになり、今度は束ねた穂を背負って喜びの歌をうたいながら帰ってくると言っています。当然ですが、青年時代に誤解してそれが分かりませんでした。

  126篇は、バビロンに強制的に連れ去られた人々、「主の捕われ人」が、70年に亘って酷い扱い、強制労働、涙と苦労、泣きながら眠れぬ夜を過すこともありました。だが、主が私たちの罪をゆるし、再び祖国に連れ帰って下さると聞いて喜び歌ったのがこの歌です。自分たちはその知らせを聞いて、まるで「夢を見ているようになった。」「その時には」とあります。その時には、時が満ち、服役の時が終わり、「口に笑いが」、唇に喜びの歌が満ちると歌います。神が大きな業を成し遂げて下さり、まるでネゲブの砂漠に川の流れを導くように、あり得ない事が起るだろうという喜びの歌です。

「涙と共に種をまく人」とか、「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は」とありますが、どうして種をまく人が涙を流しているのでしょうか。種籾が重いからでしょうか。確かにそれもあるかも知れません。辛い重労働を課され、しかも将来には望みが少ないからでしょう。

  また、バビロニアで十分食料が与えられず、冬の期間、種籾にやっと手をつけずに耐えて来て、今、春を迎えた涙でもあります。子どもたちがひもじさの中で泣いています。子どもたちの泣き声を聞きながら、冬の期間、種籾に手をつけずに忍耐するのは極めて辛いことです。だが籾に手を付けてしまったら、後は生きていけない。大人たちは自分の食べ物を削っても、痩せ細る子たちに一掴(つか)みでも取って食べさせてあげたい。そんな長かった日々です。しかし、今、重い種袋を背負って種をまきに出て行かねばなりません。痩せ細った体に種籾を背負って、「涙と共に種をまく」のです。

  だが、穀物が実をつけるにはまだ何か月もかかります。その期間は、野菜や野草を摘んで生き抜かねばなりません。もしかすると、「種の袋を背負い、泣きながら出て行った」のは、実がなるまで、野草で飢えを凌ごうという決意の涙かも知れません。

  だが数ヵ月後、天候に恵まれれば必ず実を結びます。その時には、「喜びの歌と共に刈り入れ」ます。「束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」でしょう。今は汗と涙です。だが将来、収穫の歓喜が訪れます。

  ヘブライ人への手紙に、「神の御心を行なって約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」とあります。忍耐を軽視してはなりません。コリント前書には、「愛は忍耐強い。愛は情け深い」とあります。教会を建てることだけではありません。何事にしろ、何かを育てるためには忍耐が必要です。しかし、ただただ忍耐し、我慢するというのではありません。忍従でなく、必要なのは、「愛の忍耐」です。愛をもった忍耐です。忍耐と愛を関係ずけることです。情け深くある忍耐です。

  「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神が私たちを先ず愛して下さったから、それを考えると私たちの中にも愛の忍耐が生まれるのです。

  今年は50周年です。私たちは小さい者ですが、少しずつ何かを持ち寄って「生きた石」として教会を建てて行きましょう。いや、何かでなく、私たち自身を「生きた石」として集まって教会を建てていくのです。それは、次の50年、百周年に向かって教会を建設する作業でしょう。ある人は奉仕を通して、すなわち時間を捧げます。ある人は祈りを捧げます。具体的な日々の祈りの生活です。ある人は財を捧げ、ある人は教会の徳を建てるために力を捧げ、百周年に向かって第一歩を始めましょう。

  ここに集う人皆が、生きた石として、キリストに用いていただきましょう。「この主のもとに来なさい」と呼びかけられています。この50周年に自分も信仰の第一歩を始めようという方があればと思います。

  5月17日の記念祝会の担当は、明日の教会を目指して、結果的に出来るだけ若い人たちに担当を担っていただく事になりました。お年を召した方々は、手を出したいところをできるだけ我慢してください。担当表にお名前が入っている方は、自分は年寄りなのにとお思いでも、皆からはあなたはまだ若々しいと思われているというようにお考えください。このようにして、全員が祈りつつ、この記念祝会を意味あるものにしていきましょう。

           (完)

                        2009年4月19日

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;フランス中部、ヴェズレーの聖マドレーヌ教会。)