思いがけない訪問者 (下)


  
  
                                              
                                              ヨハネ20章24-29節
 
 
 
                                 (3)
  復活のキリストについて驚くべきことは、その存在の素朴さ、シンプルさです。死に勝利して復活されたキリストなのですから、恐るべき偉大な方、力と威厳を備えた勝利者として再来されると考えることも出来ます。そう考えるのが当然です。

  ところが反対に、イエスは、トマスも含めた弟子たちの真ん中にお立ちになって、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。なんと単純な言葉でしょう。何も飾る所はありません。しかし、これは本質的な言葉です。

  イエスはこの言葉を、19節と21節と今日の26節の3回語られました。それが、どんなに人間に必要な言葉であるかを知っておられたからに違いありません。

  人間は本来、神からの平和の語りかけを願っているからです。平和や安全を求めて、お金を蓄え、物を備え、遠い将来の安全の保障のために色んな策を練ります。しかし沢山お金を積んでも安心できません。足元から崩れそうになるのが私たちです。まるで、砂浜の波打ち際にはだしで立っていると、打ち寄せる波に足元の砂がさらわれ、いつの間にか足元が崩されて立っておれなくなるのに似ています。政府の援助を受けた銀行や証券会社の役員が莫大な退職金を良心の痛みもなく受けとるのです。オバマ大統領が、「恥を知れ!」と語ったのは当然です。でも前の大統領であったらこう言ったでしょうか。

  キリストによる平和。それが内なる命の中心です。その内なる平和があるとき人生を進む支えになります。多くの人は他のもので代用していますが、それは間に合わせで、他のもので代用しても、代用できません。また心理的な操作で、自分の心を操っても、神による平和、真の中心、魂の真っ芯における平和は得られません。真っ芯に当たらなければ会心の当り、ヒットは飛ばないのと同じです。

  平和は、ご存知のように、聖書ではシャロームという言葉が使われています。シャロームは争いがない状態というような、静的な、無風状態ではありません。涅槃のような状態ではありません。

  そうではなく、平和こそ神の祝福です。「あなたがたに平和があるように」とは、「あなたがたに命がみなぎり溢れるように」という意味です。喜びが溢れ、力が充ち、希望が溢れること。命の充満がシャロームです。

  今年の春は、イースターと共に大自然が一度に甦りました。この一週間で桜が満開になり、サッと散って行きました。こんな一瞬の咲き方、散り方は久し振りです。ケヤキが桜と共にもう新芽を吹き出しています。これも珍しいし、路地でポピーが風に揺れています。チューリップも満開、山吹も、スオウも、レンギョウも、二輪草も、色々な木や草が一斉に芽吹き、花をつけました。命が充満し、みなぎり溢れています。

  このみなぎり溢れる命が、「あなたがたにあるように」と言われたのです。「平和があるように」。死者の中から甦ったイエスは、恐れて、戸にも心にも鍵をかけている弟子たちに、人々を恐れるな、明日を思い煩うな、命の充満があるようにと言われたのです。

                                 (4)
  神を信じるということは、予期しない存在に対して自分を開け放つことです。

  イエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。簡単に言うなら、「疑わず、ただ信じなさい」ということです。更に「見ずして信じる者は幸いである」と言われました。「見ずして信じる」とは、何ひとつ新しいことが始まってくれない長い長い人生の冬の期間においても、主なる神は必ず働いて下さっているから、それを信じて留まり続けることです。神をはっきり感じられなくても、神を信じて留まり続けると、挫折しても挫折を栄養にして、そこから立ち直っていけるでしょう。

  聖書通読にしても、礼拝生活にしても、生活の中で何かをやり始めたことも、3日坊主になると自分がイヤになりますが、イヤな思いも神に委ねて、挫折した所からまた始めて行けばいいのです。不完全な者である自分を責めてはいけません。ありのままの自分を委ねる所から自分らしさが始まります。

  テゼ共同体に不治の病を抱えた青年がよく来るそうです。進行性の病はもはや治る見込みはありません。彼はもはや、人生で力を発揮するチャンスはありません。それを考えると、どんなに口惜しいことでしょうか。ところが彼の眼差しは驚くほど明るく、心を社会と人に向かって大きく開いています。

  彼はある日、キリストを信じる者になるということ、神に信頼するということがどんなことか分かったのです。以前は、信頼なんて必要ないと思っていました。しかし今、「私はキリストを信頼しています」と語って、ひどい病にもかかわらず、「平和が」与えられ、命が溢れんばかりに生きているのです。

  復活のイエスは、「見ずして信じる者は幸いである」と言われました。復活のイエスがお与えくださるものは、死によっても滅ぼされぬ命です。失敗によっても、過ちによっても、挫折によっても、病気によっても、イエスが授ける復活の命は消滅しません。この青年のように、たとえ肉体的に再起不能になっても、その十字架を負っていく力を与え、人生を新しく始めることを可能にする。それが復活の命です。

  第1ペトロ1章はこうあります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

  この「魂の救い」が、平和、シャロームです。この平和があるとき、社会と隣人に積極的に心が開いていきます。イースターは、キリストにおいて、こういう希望の源泉を私たちに授けるものです。

                  (完)

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレー聖マドレーヌ教会の外壁のレリーフ。)