思いがけない訪問者


  
  
  
                                              ヨハネ20章24-29節


                                 (1)
  イエスが十字架で殺された後の弟子たちは、自分たちも捕まるかも知れないと大変恐れたようです。今日の直前の19節でも、彼らはユダヤ人を恐れて「家の戸に鍵をかけていた」とあります。その8日後の今日の箇所でも、26節に、「戸にはみな鍵がかけてあった」と書かれています。

  彼らは恐れと緊張で、戦々恐々として互いに身を寄せ合って集まっていたのでしょう。そのような部屋に、復活のイエスが日曜の夕方入って来られたのです。弟子たちは主を見て、非常に喜んだと、20節に書かれています。彼らの顔に輝きが走ったのが目に見える気がします。

  だが、最初のイエスの顕現の時にディディモと言われるトマスはいませんでした。それで他の弟子たちは、「私たちは主を見た」と彼に告げたのです。別に自慢するつもりでなく、ただ喜びを伝えたかったのでしょう。ところがトマスは、「あの方の手に釘跡を見、私の指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をイエスの脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言ったといいます。

  弟子たちは他意があって言った分けでないのに、トマスは過敏に反応したのでしょうか。私たちも他意はなかったのに、過敏に反応されて困ってしまう場合があります。恐らく、それだったのでしょう。

  それにしても、他の弟子たちが復活のイエスとの再会を興奮して話すので、彼は幾分ムキになって言ったのかも知れません。そこには、かすかな妬み、自分だけが取り残されたひがみ、また負け惜しみ、そういう入り混じった諸々の感情が、トマスの本来の懐疑的な性格を一挙に明るみに出したに違いありません。

  以来、彼は懐疑家のトマスの名をもって呼ばれるようになりました。

                                 (2)
  しかし考えてみると、私たち現代人はトマスのような懐疑家です。私たちも、イエスが死人の中から甦って弟子たちの所に来られた時、その場にいませんでした。ですから、現代人もトマスと同様に、イエスの傷跡に触って確かめなければ信じないという思いを持っているのではないでしょうか。考えてみれば、12弟子以降の全てのキリスト者は、もし復活のイエスの傷跡に触ることができれば、もっと強い確信を持てるのだがと、ひそかに思って来たのではないでしょうか。

  しかし、復活のイエスは、「ユダヤ人たちを恐れて鍵をかけている」弟子たちのところだけでなく、「釘後に指を入れて見なければ」と難癖をつけているトマスの所に、入って来られるのです。

  イエスは、私たちが模範的な信仰者であるから、固い信仰を持っているから愛されるのではありません。また信じるのが困難だから愛されるのでもありません。イエスは再び来られるのです。一人ひとりの所に来られます。ヨハネ14章で、「私は、あなた方をみなし子にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と約束されたから、再び戻って来られるのです。そこには、信じる者を一人も失わないというイエスの断固とした愛があります。

  それは、弟子たちやトマスに行なわれたように、人を恐れたり、信仰を失いかけている私たちも一人も失われないように、私たちをみなし子にしないために、再びやって来られることでもあります。

  確かに復活のキリストは私たちを決して一人置き去りにされません。私たちの魂の底によく目を注いで見ますと、心の最も深い所、他の何者にも代えられない本来の自分が存在している所に、既に復活のキリストが来て、私たちがキリストに出会うことを待っておられます。そして、その最も深いところでキリストに出会う時、自分も誰も予期しなかった事が、自分の本質、自分の実存がある場所から始まるのです。

  キリストが、どうして信仰の弱い、信仰を欠いた私たちを見放されることがあるでしょうか。キリストは私たちを一人放置されたりされません。キリストは十字架の上で、「わが神、わが神、何ゆえ、私をお見捨てになったのですか」と、神に叫ばれました。そう叫ぶことによって、一層神に委ねて行かれました。そのお方が、どうして神の真意が分からず、神に叫ぶ私たちをお見捨てになることがあるでしょうか。

  私はこの一ヶ月ばかり、腰を痛めて苦しんでいます。50周年の行事の準備、その記念誌、教会総会資料など、色んなものが押し寄せて、パソコンの前で座りすぎ酷使したようで、腰を痛めて立ち上がることも、痛くて眠ることもできない日があります。腰に負担がかかるので、椅子の背もたれに体を縛り付けて座っていまして、人生のこの時期に、こんな試練があるとは思っていませんでした。まことに惨めな思いです。

  そんなときに、イエスが、「私は、あなた方をみなし子にはしておかない」と言ってくださる言葉が、有難かったです。ジーンと胸にしみました。また息子からも電話があって、「腰の調子はどう?」と言ってくれまして、自分のような人間も「置き去りにされていない」、有り難いと思いました。

  そこから思ったことは、私たちは家族や身近な者に対して案外ぞんざいに扱いがちです。しかし家族や身内に、優しい思いやりの言葉やいたわりの言葉を、しっかりかけてあげてください。ひと言でいいんですね。今日帰ったらぜひそうしてください。

  話はそれましたが、キリストは私たちを置き去りにされないのです。疑い深いトマスにも目を注いで、わざわざ彼のために2度にわたって弟子たちを訪ねて、12弟子の一人として再び立てるようにしていかれるのです。復活のキリストは愛をもって再び来て下さるのです。

              (つづく)

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレー聖マドレーヌ教会の外柱のレリーフ。)