子ロバとイエス (下)


  
  
                                              マタイ21章1-11節

  
  
                                 (3)
  5節は、「柔和な方で、ロバに乗り」となっています。これは旧約のゼカリヤ書9章の引用です。そこには、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。…高ぶることなく、ロバに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って」とあります。そして、それに続いて、「私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる」と語っています。

  ここに告げられているのは、世界に平和をもたらす王です。この平和は、敵を滅ぼし、彼らの戦車や軍馬や弓を断つことによってではないのです。エフライムの戦車、エルサレムの軍馬です。すなわち、自国から戦争の道具を断ち、非暴力になって平和を告げると言っているのです。

  イギリスでG20、主要20カ国のサミットがありましたが、その後、アメリカのオバマ大統領は、ストラスブールにフランスやドイツの若者たちが大勢集まる中で、「最終的に、核兵器のない画期的な世界を目指したい」と演説しました。これはアメリカ大統領としては本当に新しい言葉です。私はこれを歓迎したいし、日本政府も身を入れて支持してもらいたいと思います。(次の訪問地プラハでは、彼は更に踏み込んで、「核兵器を使用したことのある唯一の国として、倫理的責任がある」と語った。日本ではこれが4月6日の新聞に取り上げられた。)夢のような話ですが、新しい世界に一歩乗り出した意気込みを感じます。

  力だけによっては世界に平和は来ません。信頼関係をつくりだす、忍耐強い、粘り強い話し合いと、息の長い取り組みなしにはできないでしょう。その一歩が今始まったと思います。

  「柔和な方で、ロバに乗り」と言うのです。柔和とは、本当の優しさです。信念を持った穏和さです。真理に対する素直さでもあります。

  イエス様はまさにそういう方です。

  ここ30年、バングラデシュの貧しい地域にテゼ共同体のブラザーたちが住んでいます。そのテゼの家を頻繁に訪問していた車椅子のラジブという青年が、3日前に亡くなったそうです。19歳でした。ブラザーたちはそこで障害児たちの施設を創り、やがてJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の医療のスタッフもそこで長く働くようになりました。それで、日本キリスト教海外医療協力会はテゼのブラザーたちと密接に交流しています。そのことは以前お話しましたので省略しますが、暫らく前の教団新報でもバングラデシュのテゼ共同体とJOCSの働きが紹介されていました。

  ラジブ君は、ここ数年、体力の衰えが進んでいました。ここしばらくは自分でも死が近いことを知り、病院でなく自宅に留まり亡くなったようです。イスラム教徒の彼は、テゼのブラザーたちをこよなく尊敬し、弟のシャリフに車椅子を押されて、テゼの家を頻繁に訪れていました。バングラデシュのテゼを訪問した外国人で彼に出会わない人は殆どいなかったそうです。日本にも沢山の友人がいるようです。彼は大勢の人を前に、物怖じせずに演説するスピーチの名手で、ブラザーから英語を学び、その語学力にみんな驚いたそうです。残された貧しい家族をこれから支えていくのは、16歳の弟のシャリフです。

  私はこの知らせを昨日受けて、世界の片隅で、キリストに従いながら、柔和と優しさと真実をもって、イスラムの勢力圏で地道に平和を創る働きがなされている貴さを改めて思わされました。バングラデシュのブラザーの一人を知っていますが、彼は実に柔和で、信念をもった行動家です。

  イエスは子ロバに乗ってエルサレムに入城されます。これは一種の冒険です。子ロバは途中で転ぶかも知れません。坂道で転落するかも知れません。だが、その冒険をイエスは冒されるのです。イエスは全身をかけて子ロバにお乗りになるのです。

  ですから、イエスが子ロバにお望みになるのも、たとえ子ロバであっても、その全身を使ってイエスを持ち運ぶことです。真実を尽くすことです。小手先ではありません。ましてや口先ではありません。私たちの存在の全てをもってです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの主なる神を愛せよとあります。そのようにしてイエスをお乗せするのです。小さくあっていいのですが、真理に対する素直さと真実がなければなりません。

  それは、「主がお入り用なのです」という言葉に象徴されています。主が入り用とされる時には、いかなる者も、キリストの業のために十分に用いられていくでしょう。「これらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことがおできになる」と聖書にあります。イエスは、どんな小さな、道端にころがる、ありふれた、取り得のないような者も用いてその業を果たして行かれます。

  それは栄光の道です。エルサレムに上る栄光の道です。イエスヨハネ福音書で、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」と言っておられます。その栄光とは何でしょう。それは世界チャンピオンのように一番上の表彰台に上る輝かしい姿で高きに上る栄光でなく、十字架に上る道です。十字架こそ栄光の道です。

  イエスご自身が、子ロバのように神の栄光を表わすために、神から託された十字架を担ってゴルゴタの上まで運んでいかれるのです。イエスは片手間で担われません。その存在をかけ、十字架の死に至るまで、私たちの罪を代わりに担って十字架の上まで進まれるのです。それが今週、受難週に起った出来事でした。

  今週は、苦難へと進んで行かれるこのイエスへの思いを深めていきましょう。

           (完)

                                       2009年4月5日



                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;今日は、フランス中部の巡礼の地、ヴェズレーの聖マドレーヌ教会の内陣。)