子ロバとイエス (上)


  
  
  
                                              マタイ21章1-11節


                                 (1)
  今週は受難週です。この金曜日にイエスは十字架に掛けられました。今日は棕櫚の主日です。イエスエルサレムに入城された時、人々は棕櫚の枝を道に敷いて、ホサナ、ホサナと言って迎えたのを記念する日です。

  誰でも一生の大事なことをする時は、自分の考え、最近はコンセプトと言ったりしますが、自分の考えを出そうとします。今日の9節にダビデの名が出てきます。古代のイスラエルで最も大事なものは、十戒が納められている神の箱でした。この箱が敵に奪われて、その後、野晒し同然にされていたので、ダビデは、これを奪い返してエルサレムに運び入れましたが、その時、嬉しさの余り、その前で裸になって踊りエルサレムに入城したと、書かれています。ところが、奥さんは夫の姿を見てすごく軽蔑しました。だが彼は、人から何と言われようが神の箱を迎えて喜び踊ったのです。そこに彼の考えが、神に対する彼のコンセプトがはっきり現れていたといえるでしょう。

  イエスは最後にエルサレムに入城されます。その一番大事な時に、ロバの子、子ロバにまたがって入城されました。そこにもイエスの考えが現われていると言っていいでしょう。

  ロバは、馬のようなスマートさや賢さはありません。背丈も馬のように高くないし、勇ましくもありません。頑健で、粗食に耐え、一生黙々と荷を負い、それを運ぶのが彼らの運命です。イエスはうだつの上がらない、低さと苦労を運命づけられた方を、この大事なときに選ばれたのです。

  ロバはのろまな動物です。その上、怖がりで、強情だそうです。一旦つむじを曲げると、ガンとして言うことを聞かないんだそうです。子ども達は馬に乗るのをあこがれます。ロバに乗っても何も誇りにもなりません。イエスは親子のロバが連れて来られたのに、まだ誰も乗せたことがない子ロバをお選びになったのです。子ロバは大人のロバより更に低く、跨ると足が地面に届きそうな高さです。

  子ロバですから、まだ海のものとも山のものとも分かりません。しかし、イエスはこんな者に乗って大丈夫かと思うような者を、エルサレム入城という最も大事な時に起用されました。

  新年度を迎えて、新しい部署に移ったり、新しい仕事に就いたり、定年で新しい生活が始まった人もあるでしょし、そういうご家族を持つ方があるかも知れません。新しいことを始めるのは、誰しも不安や心配があります。まだ誰も乗せたことのない子ロバのように、自分自身大丈夫かと思いますし、人もそう思っているかも知れません。

  しかし、そういう任務についた私たちも、子ロバを引いて来させてイエスがそれにお乗りになったように、私たちを信頼し、全身を掛けて行かれるのです。

  教会でも、委員会の責任を持ったり、役員になったり、聖書研究の担当をしても、初めての時は大丈夫かと戸惑います。私たちと姉妹教会の町屋新生教会の新しい先生が決まりました、大変うれしく思います。聖書神学校を3月に卒業して初めて牧師をする50代の方です。色んな戸惑いがおありかも知れません。しかし、今日の所に、「主がお入り用なのです」とありました、主がお入り用とされる時には、まだ誰も乗せたことのない、未経験の者を、最も重要な御用のためにさえ、用いていかれるのです。

                                 (2)
  イエスが用いられた子ロバは、私たちのこの小さな教会を指していないでしょうか。

  私たちの教会が今、一番力を入れようとしているのは、5月17日の創立50周年の礼拝とお祝いの会です。皆さん、ぜひ、意味ある記念祝会にして行きましょう。参加してよかったと、ありきたりの会でなく喜ばしい会だったと、私たち自身も、集まって下さる方々にも思って頂けるものにしたいと思います。去年の今頃は、こんな記念の会をしようとは誰も計画していませんでした。50年記念誌の発行も考えていなかったのです。

  しかしいつの間にか話しが膨らみ、私は頭を切り替えて、イエス様が私たち小さな教会を神の栄光のために用いようとされているのだと考えるようになりました。

  よく申しますが、私たちは小さい教会であっていいと思います。小さくても信仰が生きていればいい。教会の中で単に赦しが語られるのでなく、語られもするが、実際に赦しがある。そういう教会であればいいと思います。

  貧しい教会であってどうしていけないでしょうか。貧しくても、和気藹々として喜びがあればそれでいいと思います。教会は仲良しグループではありません。貧しくても、誰に対しても大きく心を開いた教会であればいいと思います。

  子ロバはのろまです。立派なたてがみも、スラッとした姿も、何の見栄えもありません。私たちの教会と同じです。決して立派ではありません。ロバは、馬と比べれば全くぶざまです。走る姿は実に滑稽です。王者を乗せる器ではありません。もし王を乗せたとすれば、沿道の人はクスクス笑い出すでしょう。しかしクスクス笑われても、王なるイエスをお乗せし、イエスを誇りとして歩いている教会であれば十分です。

  馬が山の手の動物だとしたら、子ロバは下町の動物です。イエスはいつも普段着でしたから、下町の姿でいいのです。普段着の教会が、一番イエスにふさわしい教会だと言っていいでしょう。

  子ロバはイエスをお乗せした時、不安だったでしょう。不安があって当然です。しかし子ロバにお乗りになるのは、今申しましたように「お前の王」だとあります。すなわち、このお方の真の本質は王の王であり、まことの王であり、主の主と呼ばれるお方です。神であり、まことの神の独り子なる方です。そのお方が乗って下さり、一緒にいて下さるのであれば、私たちはそれ以上の誇りはないでしょう。

  ベトファゲ辺りからエルサレムに入城するには、オリーブ山をグルッと回って、それから急峻な坂道を、日光のイロハ坂を降りるように谷底まで降りて、それから今度は急な坂道をまた登らなければなりません。もし子ロバが、何故自分はこんな坂道を下ったり上がったりさせられるのかと思ったりしたら、途中でイヤになっちゃうでしょう。ぶうぶう不平が出ます。

  人間は、自分で下ったり、上がったりする分には我慢できます。でも、人から下らされたり、登らされたりすると、もう我慢ならない。夫であっても、妻であっても、上司でもそうじゃあないでしょうか。

  私たちの誘惑は、「何で私が」という心です。この心は、フッと出てきます。それは、私たちがお乗せしているのは王の王であり、お仕えしているのが主の主であるということを忘れるときです。忘れる時にサタンが代わりにそっと忍び込みます。

  だが子ロバは不平を言ったり、強情を張って途中で動かなくなったと書かれていません。ロバであっても、自分がお乗せしている方はどなたであるかを自覚していたのでしょうか。そう自覚する時に、イエスは、「主がお入り用なのです」と語って、小さな者を尊くお用い下さるのです。

  子ロバは無様な姿をしているが、イエス様をお乗せしていることを喜び、エルサレムに着くと、群衆の歓呼の中を、背中にイエスをお乗せしていることの感謝をもって、疲れも忘れて、身を入れて、誇らかに入城したのではないでしょうか。

  私たちは5月17日の50周年の会を、また50周年のこの年を、イエスのために身を入れてお仕えしようではありませんか。

                (つづく)

                                        2009年4月5日



                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;今日は、ヴェズレーのタンパンの部分。東方の博士たち)