「日本キリスト教団の大きな恵み」 (下)


 
  
                                           
                                            フィリピ1章27-30節
  
                                 (2)
  さて、「キリストの福音にふさわしく」と語った後、パウロは、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と申します。

  社会にも教会にも多様な人がいます。年齢も性別もですが、社会的な働きや傾向、性格も違う人たちです。イエスの12弟子たちを見ても、その多様性は驚くほど豊かです。フィリピの教会も多様な人が来ていたでしょう。

  4章2節には、エボディアとシンティケという二人の婦人の事が書かれています。「私はエボディアに勧め、シンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。真実な協力者よ、あなたにもお願いします。この2人の婦人を支えてあげて下さい。」

  何故わざわざ2人に、「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めたのでしょう。この婦人たちは、フィリピ教会の有力な婦人たちであったからです。2人は手八丁、口八丁の女性たちであったり、賢い、才気走った婦人であったか、一人は献身的に黙々と働きながら人を動かし、他は口が達者で人を動かす。どういう違いかはよく分かりませんが、張り合うことがあったのでしょう。だが、2人の有力な婦人たちが張り合うのでなく、力を合わせて協力し、同じ思いを抱いて励むなら、彼らの力は2倍にも3倍にもなって大きな力を発揮するでしょう。そのために、「主において」一つ思いになることが必要だとパウロは考えたのです。そのために、二人が和解できるように、第3者にも二人をうまく支えてあげて欲しいと頼んだのです。

  これは教会だけではありません。どんな職場、どんな集団、また家庭でもそうです。内側で争えば、家は立ち行かないと、イエスはまるで私たちの家の中をご覧になったことがあるかのようなことをおっしゃってますが、これは永遠に真理です。

  パウロはそのことを、信仰の根本に立ち戻って勧めたのがこの言葉です。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせ…。」

  キリストは一つです。キリストの霊、聖霊は一つです。キリストの体なる教会も一つですし、洗礼も一つ、主は一つ、希望も一つです。だから、「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせ」ることができる。

  私たちの教会は日本基督教団に属する教会です。現在1,700程の教会と伝道所があり、2,100人程の牧師たちがいます。信徒数は現住陪餐会員は約10万人、礼拝には全国で毎週6万人程が出ています。2番目に大きいプロテスタントの教会は9,000人程の出席者ですから、日本基督教団は日本で一番大きなプロテスタント教会として責任も大きくあると思います。

  しかしプロテスタント教会の中で一番大きいことが、日本基督教団の大きな恵みでは決してありません。数の多さでなく、日本基督教団は多様な諸教会が合同した教会であるから大きな恵みを持っているのです。1,700程の教会は画一化された教会でなく、多様な歴史的な伝統と多様な傾向性を持ち、しかも一つの信仰告白のもとに、一つの霊に導かれ、一つの教会を形づくっていることです。

  日本基督教団は、1941年6月24日に、当時あった30余の全プロテスタント教会が合同しました。その背景にはプロテスタント教会自身が合同しようという強い合同の機運を持っていたからですが、しかし、一番大きい合同のきっかけは、宗教団体法の下で合同させられたことです。ですから、日本キリスト教団の歴史には、国家に屈したという罪と弱さの歴史が横たわっています。しかし、国家の介入が契機でしたが、主によって恵みの中で成立したという面もあります。

  そのために、戦後5、6年の内に、教団の外に再び出る教派がありましたし、アメリカなど外国の教派とチャッカリ結びついて、外国の支援を得て伝道するために教団の外に出る教会もありました。だが、大半の教会は教団に留まり続けたのです。そして私たちは、教団の教憲、教会の憲法にあるように、「くすしき摂理のもと、御霊のたもう一致によって、各々その歴史的特質を尊重しつつ、聖なる公同教会の交わり」に入るようになりました。

  日本キリスト教団の大きな恵みは、多様性ということです。その誕生の時からこの特別な恵みを授かっています。カインは、彼に出会う者が誰も彼を撃ちのめす事がないように、神がその額に、徴をつけられたと書かれていますが、私たちの額には多様性という徴がつけられているのです。

  多様性は分裂の可能性をはらみます。しかし、「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」行こうとするなら、多様性はまたとない強さになります。

  現実の教団には色んな問題がありますが、教団の諸教会が、その多様性にも拘らず互いに裁き合わず、対話しつつ、真理を求めていく。伝道熱心な教会があり、社会活動に秀でた教会もあります。教会形成を大切にしている教会があっていいし、幼稚園や保育園で地域に入ろうとする教会があってよい。また神学を大切にしている教会があっていいと思います。それらが互いに認め合い、補い合い、尊重しあっていく。その時その力が最大限に発揮されるでしょう。

  私たちは大きな度量を祈り求めることが必要です。特に教団のリーダーはそれを持たなければならないでしょう。主の祈りは世界を包む祈りだと誇らかに言われますが、少なくても日本キリスト教団全体を大きく真実に包む度量が必須です。そういう傑出したリーダーがこの教団から出てくることが今、切に求められています。

  違いを性急に裁かないことです。あれかこれかを突きつけないことです。キリスト教の歴史を顧みると、性急にあれかこれかを突きつけることによって宗教戦争にまで発展したのです。殺し合いにまで発展したのです。その事から私たちは学ばなければなりません。歴史を忘れる者、自分たちはそんな過ちを犯さないと過信する者は、必ず再び過ちを犯します。

  一般的に言っても安易に敵味方に分けず、安易に色分けしないことが大事です。むしろ色々な性格があることを感謝して受け止め、それがある故に幅があり、豊かであり、多面的な活動が出来ることを喜ぶことです。

  フィリピ書は喜びの書簡と呼ばれますが、キリストから与えられたことを喜ぶことが、教団が生かされる道です。

  これが教団に、誕生の時から授かった恵みであり、教団の使命と言っていいでしょう。そのようにある時、パウロが言うように、今日の世界にあって、反対者たちの前でもたじろぐことがないし、「あなたがたの救いを示すもの」となるでしょう。

  キリストは教派を超えています。いつかキリスト教は、全プロテスタントが一つになるでしょうし、カトリックとも、ギリシャ正教会とも一つになるでしょう。その幻を捨ててはならないでしょう。それができるのは、「一つの御霊によってしっかり立つ」ことによってだけです。

  日本基督教団が、30余の教派が、教派の違いを活かしつつ一つになった合同教会であるということは、キリスト教の将来を先取りする喜ばしい教会であると言ってもいいと思います。教団の大きな恵みはそこにあります。

                                 (3)
  最後に、パウロは29節で、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と語っています。

  パウロほどキリストの恵みを深く、徹底的に捉えた人は初代の教会にはありませんでした。今は受難節です。彼は、キリストの十字架の意味を、神様のみ心深く立ち入って考えを深め、また十字架の意味を人間の魂を罪の深みから救い出す出来事として究め、教会が世に存在する意味、人間の和解について考えることにおいても深め、世界の終末の出来事との関係でも深めました。

  しかし、パウロは信仰と思想を深めただけではなく、彼は、キリストの苦しみ、十字架の苦しみに与ろうとして生きました。その苦しみに与ったこそ、あれほど深く考えることが出来たのでもありました。彼は牢獄にあって十字架を思索し、迫害されることによって主の苦難を思索しました。

  そして彼は、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と考えました。そして次のコロサイの信徒への手紙では、「私は…キリストの苦しみの欠けた所を、身をもって満たしている」と語ってもいます。

  私たちはキリストの恵みに与りたいと思います。しかし、ただ恵みを頂くだけでは、その恵みを真に深く知ることはできません。死海は不思議な湖です。ヨルダン川から水が流れ込む一方で、どこにも水が流れ出ないのです。その結果、死海の水は何千年も増えもせず、減りもせず、その結果、死海はどんな生物も住めない死の海となりました。恵みを受けるだけで、恵みを他に与えることを惜しみ、自分の所にしまっていると、死海同様、死んでしまいます。

  今年の受難節は4月11日まで続きます。まだ3週間あります。私たちは、何かの形でキリストの苦しみに与かろうではありませんか。しかし苦しみにおいても、決して受身になるのでなく、むしろそれを建設的に用いて行こうではありませんか。キリストのために苦しむ時、生きることにもう一つのクリエイティブな意味が出てきます。

  「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。」この受難節に、キリストのために苦しむ恵み、ということを考えたいと思います。

               (完)


                                              2009年3月22日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;今日は、ヴェズレーの12世紀の見事なタンパンです。これは入り口を入った所にあります。)