わたしは あなたのもの (上)


  
  
  
                                              イザヤ書44章1-5節


                                 (序)
  「わたしはあなたのもの」と、流れるようなきれいな文字で看板を書いて下さいました。まるで、素敵な、最愛の人への思いを込めて、胸の内を告白しているような素晴らしい文字です。

  イザヤ書の直ぐ前にある雅歌は、愛し合う若い二人の甘い愛の告白を歌っています。「どうかあの方が、その口の口づけをもって、私に口付けしてくださるように」という言葉で始まります。所々にある余りのなまめかしい表現に、これが聖書かと疑うほどです。そのため雅歌は聖書から外されそうになった歴史もあります。だが、この恋人たちの愛は私と神との愛を象徴するものとして今日まで聖書に残されました。

  そのように、「わたしはあなたのもの」と言うのは、もちろん神様のもの、イエス様のものという意味で言っています。そのことを今日のイザヤ書からお聞きしたいと思います。

                                 (1)
  今日の5節に、「ある者は『私は主のもの』と言い」、「またある者は手に『主のもの』としるし」と書いて、ある者は自分が誰のものであるか。誰に属し、何に由来し、自分の源は何かを明らかにするとあります。

  しかし、私たちのことを翻って考える時、自分はある者に「属する」とか、誰かの「もの」だと語ることは、後ろ向きの、古い価値観のように感じます。それは、自由とか、自立とか、主体性とか言うものと正反対で、矛盾するのでないかというわけです。

  預言書イザヤはこの所で、国が滅ぼされ、エルサレムから数千km離れたバビロニヤに強制連行され、数十年にわたって強制労働の苦難の中にある人々のことを語っています。人間として扱われず、横暴な外国人によって「彼らのもの」、彼らの所有物と見なされ、牛馬のように取り扱われた人々のことです。

  彼らは、自分が自分自身に属さず、思いのままにならず、他国人の「もの」になり、隷属させられ、苦しめられていたわけで、彼らにとって、自立でなく誰かに「属する」ということは、隷属をも思わせられて、余りにも後ろ向きの表現と思えたのではないでしょうか。

  しかしまた、私たちのことを振り返って考えますと、私たちが率先して属したいものもあるのでないでしょうか。属することによって誇りとなり、誉れとなるものがあります。しかしまた、属したいが自分の前でドアが閉められたり、狭き門であったり、何かの資格がなければ入れてもらえなかったり、長い間待たなければ入れてもらえないものもあります。それが、幼稚園や保育園、老人ホームである人もあるでしょう。またホームレスの人たちは、深夜になると駅のシャッターが閉まり締め出されます。昨日はひどい風雨でした。軒のある所で寝たいですが、建物の中だけでなく、軒からも締め出されます。彼らは属したくても、どこにも属せません。

                                 (2)
  しかし、神はこういった仕方を行なわれません。40章8節には、「主はとこしえにいます神、地の果てに及ぶ全てのものの造り主」とあります。他の箇所には、神は、私たちが母の胎内にある時からすでに選ばたとさえあります。

  そして、41章9節以下には、「私はあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたは私の僕、私はあなたを選び、決して捨てない」と語られます。神は、私たちが母の胎内にある時からすでに選ばれるだけでなく、何かを行なったとか、何かに値するとかではありません。まだ何も行なっておらず、そういう機会すら持つ前から、既に選ばれるのです。神は、無条件的な、絶対的な愛をもって、私たちを僕として招いてくださる方です。

  今日の1、2節は、「私の選んだイスラエルよ、聞け。…恐れるな、私の僕ヤコブよ」とあります。この言葉に、神の無条件的な招き、その愛の肯定的な呼びかけを聞くことができるでしょう。これはイスラエルという集団だけでなく、私たち一人ひとりに対する呼びかけです。

  更に4、5節で、「私は渇いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫に私の霊を注ぎ、あなたの末に私の祝福を与える。彼らは…水のほとりの柳のように育つ」とあります。

  私たちはそれぞれ魂の渇きを持っています。それは、他の人から評価されたい、愛されたい、また愛したいという願いでもありますが、その切なる渇きを神が満たし、砂漠のような渇いた生活の中で、神が命の源となって下さるのです。

  あるいは私たちは悩ましい問いを持ちます。それは私たちをしばしば脅します。「私を信頼してくれている人たちは、もし私の本当の姿を知ったとしても、それでも私を信頼してくれるだろうか」という問いです。だがイザヤ書41章は、「私はあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたは私の僕、私はあなたを選び、決して捨てない」と語るのです。私はどこまでもあなたを信頼し、捨てない。あなたはいつまでも私の僕だと言うのです。

             (つづく)

                                              2009年3月15日

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;レストランはこの時間はお休みでした。残念。)