わたしは あなたのもの (下)


 
                                                
                                              イザヤ書44章1-5節
  
  
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  イザヤ書は66章あります。1章から39章までは第1イザヤと言われます。彼は家柄の良い高級祭司の一人でした。しかし、40章から55章までは第2イザヤと言って、無名の人、どこに住んでいた人物かも分からない人によって書かれました。預言者自身は、預言の言葉の背後に退き、預言だけを残すだけで顔を見せないのです。そういう意味でも味のある人物です。56章以下は第3イザヤと言われます。

  さて、イスラエルの人たちは先ほど言いました、人間として扱われない、過酷で極限的なバビロニヤへの強制連行の苦しみの中で、第2イザヤの神理解が変貌を遂げたのです。その苦難は、中国や朝鮮から強制連行されて強制労働された人たちの苦難と同じでした。60年以上経ってもまだ裁判がなされるほど、中国や朝鮮人への扱いは酷いものでした。

  ただ、第2イザヤにおいては、虐げられる中で、その神観念は浄化され、清められ、驚くほど透明になり、広がりを見せ、澄んで行きます。そのような神認識の変化はヨブ記にも、個人的な形で現われていますが、それはただ個人的です。それはそれとして、第2イザヤの神理解は決して押しつけぬ、怒らぬ神です。激怒しない神。むろん非は非として語るものの、威嚇せず、人の尊厳を傷つけぬ神です。忍耐強い母のような愛の神です。

  43章25節以下に、「私、この私は、私自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」とあります。

  これは驚くべき愛です。背きの罪をも拭うのです。神は、愛だけを行われるのです。人間の何かに免じてとか、何かを根拠にしてではありません。それなら条件付きです。神は、私たちの業や功績や何か取り柄を根拠にではなく、ご自分を根拠に、「私自身のために」あなたの罪を思い出さず拭い去る。それゆえ、神の愛は最も確実性のある愛になります。

  この神の愛は54章7節以下では、「僅かの間、私はあなたを捨てたが、深い憐れみをもって私はあなたを引き寄せる。ひと時、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。…今また私は誓う。再びあなたを怒り、責めることはないと。」神はご自身にかけて誓い、ご自身への固い誓約をもって愛を行われます。10節は更に、「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ平和の契約が揺らぐことはない…」と語ります。山や丘が移ることがあっても、「私の慈しみは決してあなたから移り行かない」のです。

  これが、第2イザヤが捕囚の苦境の中で発見した神でした。神が行なうのは、ただ愛のみである。この発見が彼によって、最も暗い、暗黒の、絶望の、どこにも光が射さない時代になされたのです。闇が最も深まったからこそ、細かい星くずが、彼の目に明るくはっきり見えたのです。宇宙の一番深い所に静まってある、父なる神の愛の輝きが、彼の目に留まったのです。

  皆さん。自分は深い闇の中にあるとお思いの方は、そこでこそ見える神の愛の深さがありますから、その深い闇、苦しみ、逆境もおろそかにしないで、神の愛を新しく発見する機会にして下さい。必ず、皆さんの所に神の愛は届いています。それを見逃さないように生きて行きましょう。闇は必要なのです。苦しみも逆境も必要なのです。だが闇にまさって、神の栄光が皆さんの上に現われます。

  その闇においてあなたが発見する神の愛は、もしかするとまだ誰も発見していない深さ、輝き、個性を持つかもしれません。それはあなたでなければ発見できない種類の神の愛になるでしょう。それをぜひ発見していってください。

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  今日の聖書は、そのような神の無条件的な、絶対的な神の愛を自分の置かれている所で新しく発見する時、ある者は、喜びをもって「私は主のもの」と証しし、ある者は、自分の手のひらに、自分は「主のもの」と書いて、主のものであることを喜び、語る者になるというのです。

  自分はこのお方にお任せしよう、お任せする、ということになるというのです。

  私たちもそうです。このような神に出会う時に、「私はあなたのもの」と喜びをもって語り出すでしょうし、ある者は美しい、流れるような文字をもって「わたしはあなたのもの」と書くかも知れませんし、ある者はそのような意味の短歌や俳句を読むかも知れませんし、ある者は黙ってその喜びを生きるに違いありません。

  私が神の所有であるということは、受身的な生活を意味しません。むしろ、極めて能動的な、積極的な生活を意味します。「神が我々に味方し給うということを我々が知る時にこそ、我々は、真の意味において責任を負うのである。」(K.バルト)この言葉をゆっくり静かに味わうことが必要です。

  「私は主のもの」。これは信仰の中心になる核です。この核に達する時、その心はシンプルに、単純に、澄んで来るでしょうし、シンプルな素朴な確かな生き方が始まるでしょう。ヘンリー・ナウエンは、単純さとは、私たち一人ひとりの心の核になるものに、私たち一人ひとりの魂のある所に、命の源に完全に身を任せることだ、という意味のことを書いていました。

  今の時代は、この命の核を見出せないために人々はさ迷っています。この命の核、命の源を見出さない限り、どんなに有名になろうと、どんなに地位が上がろうと、金持ちになろうと、喜びと心の平和はやって来ません。ある者にとっては、心満たされない不安。焦燥感、どことなく休まらない、落ち着かない思いがまといつきます。

  だが命の核を見出す人は、「我が心定まれり」と、心が定まってきます。「心の貧しい人たちは幸いである。心の清い人たちは幸いである」ということが起ります。そしてその時、私たちは神の創造の一部を生き始めるでしょう。それは、神の心に適(かな)った美しいものでしょう。どんなに砂粒ほどの小さいものであっても、その砂粒ほどのことをもって、神の創造の一部を積極的に生き始めるでしょう。

  その人は幸いです。そしてその砂粒ほどの新しいものには、神の愛が反映しているでしょう。それは、「私はあなたのもの」であることは命の力であり、微(かす)かであっても、真実嬉しくてならないことであるからです。

                  (完)

                                              2009年3月15日

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの聖マドレーヌ聖堂。)