「輝いた全身」 (下)


  
                                               
                                              ルカ11章33-36節
  
                                 (4)
  重要なのは、内側に光があるということです。内側に光がなく夜があるなら、見るのは難しく、困難なものが生まれる。しかし内的な生活が光り、輝き、隣人への愛に向かって行き、親切な一瞥の光が周りに向けられるなら、あなたの体が、全身が輝いて来るということです。

  イエス様は、ヨハネ8章で、「私は世の光である。私に従う者は、暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と言われました。またヨハネ1章で、「その光はまことの光で、世に来て、全ての人を照らすのである」と言っておられます。

  キリストの命の光が、私たちの内側に輝いているなら命の光を持つし、キリストの命との、神との関係が切れてしまっているなら、闇が内側を支配するだろう。そうなっていないか調べなさいというのです。

  また、イエスヨハネ12章で、「私を信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、私は光としてこの世に来た」と言われました。「世に来た」とは、すでに光として来ておられる。もう傍に来ておられるだけでなく、私たちの内側に入って来ておられる。今やそこに住んで頂きさえすればいいと言うことです。

  ですからヨハネ14章は、「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私はその人の所に行き、一緒に住む」と語っているのです。

  一緒に住むとは、その人の内面にお住み下さること、住みつつ、普段にキリストが交わって下さるということです。その時、全身が輝いてくる、内側から光を発して来るというのです。

  キリストの恵みの光は、私たちの全身をくまなく照らし出します。それは、外側からも、内側からも、そして最も隠れた内面の深部をも照らして下さるのです。私たちが持っている悲しみ。癒されずにトラウマになった傷。そして心の闇、誰にも言えずに来た暗闇。贖われない、残されて来た罪の部分。そこをも、希望の光で照らして下さる。その中心部分からすっかり贖って下さるのです。

  今は受難節です。40日間の受難節があり、最後の受難週があり、その後イースターが来ます。今は、40日にわたってキリストの地上での苦しみを覚える時です。キリストの受難を深く捉えて日々を過ごすとき、人生は深まります。私たちの苦しみ、悩み、苦労、試練をキリストの苦難との関係で捉えると、人生が新しい次元で捉え直されるのです。「受難節を失う者は、一年を失う」と言われます。なぜなら、キリストの受難こそ、私たちに希望の光を与えるからです。

  話は変わりますが、江戸時代中期に仙崖禅師という禅宗の坊さんがいました。九州で有名になった人です。私が福岡にいた頃に、この人の面白い禅画を見ました。この人の禅画はユーモアあふれるもので、丸の内の出光美術館にも蒐集されています。

  今どこにあるのか知りませんが、5月の子どもの節句の兜と刀を描き、その前に大きなお餅が描かれている絵で、そこに、「切れるか、切れぬか、あんばい見よ」と書かれた禅画です。

  男の子の節句の刀です。子どもの刀ですから飾り物かも知れませんし、本物かも知れません。その刀で、大きな餅を、「切れるか切れぬか、あんばいを見よ」。その切れ味を、切れ加減を調べてみよと言っているんでしょう。

  そして、切ったついでにその餅の中に、子どもの節句ですから餡(あん)が入っているかどうか、餡をば見よ、あんば見よ、あんばい見よ。博多弁か九州弁です。その事に引っかけて、君の生き方が、世間に通用するものかどうか、錆びて通用しない生き方でないかどうか、また、君の刀は伊達の刀、飾り物の刀でないかどうか、切って試して見よ、という意味にも取れます。

  イエスの、「あなたの中にある光が消えていないか調べて見よ」という言葉も、そういう意味合いがあります。

  翻って、教会に喜びが消えてしまうなら、そして戒めや訓戒、ねばならないが多く語られるならば、教会は輝きを失うでしょう。今は情報化時代です。そのため、教会でも知識や情報のスピーチが洪水のように語られる場合があります。その時も教会は輝きが失せてきます。知識や情報でなくキリストのリアリティがあるかどうかが最も大事です。

  教会に喜びの息吹が消えないこと。教会はキリストの体ですから、それが全身に輝いていることが大切です。キリストが共にいて下さることが、私たちを輝かせるのです。そのために、教会に人の言葉でなく、キリストの命の言葉が溢れなければならないでしょうし、キリストが私たち個々人にお住み下さるよう祈り求めなくてはならないでしょう。

  終わりに久し振りに宿題をお出しします。どうか、今お話したことに基づいてお考えください。

 ① 私たちが何かを見る目は、どうして暗かったり、問題を持っていたりするのでしょうか。時には、頭で分かっているのに斜めから見たり、逆さから見たりするのでしょうか。

 ② 暗さや問題をはらんだ目は、何によって、どうすることによって、澄んだ目、心を開いた目になるのでしょうか。

 ③ 私たちの周りのどんな状況、どんな人たちが、親切な目、善意の目、愛の目を必要としているのでしょうか。自分はそこで何ができるでしょうか。

                      (完)
  
                                              2009年3月8日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーのレストラン。)