輝いた全身


  
  
  
                                              ルカ11章33-36節

                                 (序)
  今日は「輝いた全身」という題で、美容院かエステの店の宣伝文句のような題です。「あなたの全身は美しく輝く」にしようともしたのですが、そこまでしますと誇大広告だと言われかねません。

  私は夜、寝床で本を読んで、それを睡眠導入剤にして寝ます。左の枕元にランプをつけて本を手にして読むのですが、この間手にもって読んでいましたら、光の加減で手の甲の皺が非常に目立って、余りに醜くシワシワなのに驚きました。ところが今日は、「輝いた全身」という題なのです。そのギャップの大きさに困っています。

                                 (1)
  さて今日の箇所は、長く気にかかりつつ、余りよく分からないで来た聖書です。単に格言や箴言のように見ることもありました。旧約の箴言15章には、「心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈み込む」という言葉や、「目に光を与えるものは心をも喜ばせ、良い知らせは骨を潤す」とあります。「目は心の窓」と言いますが、そんな類と思うこともありました。

  よく分からないと言いましたのは、「ともし火を灯して、それを穴倉の中や升の下に置く者はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く」とある、部屋を照らすために置かれるべき「ともし火」とか、「光」は何を指すのか。同時に「体のともし火は目である…」とも言われて、ごちゃごちゃになってよく分からなくなります。

  それで、同じ11章28節には、「幸いなのは神の言葉を守る人」とありますから、ともし火は神の言葉、福音を指すのかと思ったりします。あるいは29節以下に、ソロモンにまさる者とかヨナにまさる者という言葉が出てきます。すなわち、彼らにまさるキリストがともし火だと言っているのか。或いはまた、11章の初めに祈りのことがでてきます。祈りこそ、私たちを照らし、導くともし火なのかということです。更にまた、20節に神の国のことが出てきますから、神の国が世を照らすともし火だと言うのか。そんなこんな色んな可能性を考えます。

  そういう中で、今回、33節の「ともし火を灯して、それを穴倉の中や升の下に置く者はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く」というイエスの言葉は、単にともし火というものの性格、その事実を言っているのであって、ともし火の持つ大事な役割を述べた後、イエスは、私たち個々人の内的な光、内面を照らす光に話を発展させて、34節で「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言っていると、考えるようになりました。

  あなたは内側の光が消えていないか、外は元気を装っても、内面を闇が支配していないかを吟味し、よく調べてみなさい。ちょっと耳の痛いことですが、美容で飾り立てても、内側から輝くものがなければどうなるのか、とも聞けます。

  ともかく、あなたの内側にある光が消えていれば、どうして人と世界を正しく見ることができるだろうか。世界が歪んで見えるのは、自分の内側が歪んでいるからかも知れない。そういう事柄を調べよと言うのです。

                                 (2)
  古代社会においては、人々は眼の働きについて、今とは違う特別な見方をしていたと言われます。眼は、私たちが考えるように、単に光をキャッチして、物を見分ける働きをしているのでなく、眼自体が光を放って暗闇を照らしていると考えていたようです。

  猫の目は暗がりで光りませんか。大都会で暮らしている方はご存じないでしょうが、狸の目も夜のしじまの中で光ります。田舎では、彼らは夜に残飯をあさりに来るのです。すると真っ暗な中に大きな真ん丸い目が光っています。彼らは、目から光を放って、辺りを照らして見ているのかも知れません。確かに、ねずみが懐中電灯も持たずに天井の真っ暗闇をよく躓きもせず走っていると感心しますよ。

  今日の日本語の中にも、「目の光の鋭さ」とか眼光の鋭さという言葉。また眼力(がんりき)という眼の力や洞察力を指す言葉として、知的な精神的な意味で辺りを照らす目の光の考えが残っています。

  このように古代人は、目がともし火のように辺りを照らして見るのだと解釈したし、眼はともし火であって、眼が澄んで力があれば、明るく見えると考えたのです。

                                 (3)
  では、目が澄んでいるということ。反対に、眼が濁っているという事は、内面の光との関係ではどうなるのでしょう。

  目が澄んでいるというのは、健康な眼、光を発している眼だと言いましたが、眼を患い、眼が濁ると、全てのものがかすんで暗くなり、色彩も失います。

  そこから、澄んだ目というのは、見方が寛大でゆったりしていて、かつ率直に事実をありのままに見る眼です。虚飾を取り去った、幼子の単純素朴な、無邪気な目と言っていいでしょうか。それに対して、患った眼というのは、妬みや憎しみ、怒りや欲望で眼がかすんでいる。事実をありのままに見なくなった眼。誇大に見たり、過小に見たり、歪んで見たり、事実がそこにあるのに無視したりする目です。

  ユダヤ人の言い伝えの中に、「善良な人は曇った眼をもっていない。彼は誰に対しても憐れみの心を持ち、罪人に対しても憐れむからである」という言葉があります。これが健康な、全身を明るく照らす、澄んだ目ということが出来るでしょう。それは社会も明るく照らす、人に希望を与える眼です。

  「目が澄んでいれば全身は明るいが、濁っていれば体も暗い」とは、人生や生活の質は、物事を見る見方に基いているということです。もし単純さと、善良さをもって周りをありのままに見るなら、光を灯して見ているのです。そのような人生は、正しい道、命に至る道を見つけるだろうという事です。

  反対に、妬みや怒りなどで眼がくらんでしまうと、最後的には、暗闇の中をあちこちぶつかりながら、躓きながら進むだろう。そして倒れるだろうという事です。

  これらの言葉は、なぜここに置かれたのかということですが、これらは同じ章の14節以下のベルゼブル論争で、イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取り付かれていると言った者たちに対して語られたとも取れます。その歪んだ目、正直でない色眼鏡で見ている目は澄んでいるとは言えません。あるいは、今日の次の段落の、ファリサイ派の人たち及び律法学者たちの、激しい悪意や敵意のために目がくらんでいる有様との関連で語っていらっしゃるとも言えるでしょう。イエスは彼らの態度を予め見抜いて、語っていらっしゃるということです。

             (つづく)

                                              2009年3月8日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの街のメインストリート。)