生きる手ごたえ (上)


  
  
  
                                              フィリピ1章20-26節
 
 
                                 (序)
  「生きる手ごたえ」という題です。皆さんはどんな時に生きる手ごたえを感じるでしょう。いい雰囲気の中で、仲のいい友だちとワイワイおしゃべりしながら、うまいものを腹いっぱい食べると、生きている手ごたえを感じるという人があるでしょうか。観光旅行をすると、生きる手ごたえがあるという人もあるに違いありません。また、町を行く人たちの中には、この看板を見て、商売がうまくいったり、交渉がうまく進んだり、儲かった時に自分は手ごたえを感じると思う人もあるでしょう。恐らくそんなことを思いながら生きている人も多くあるでしょうね。

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  さて、これまで学んできましたように、パウロは獄中にあってもキリストを伝えました。それは彼の喜びであり、少しでも福音が進展すること、「時が良くても、悪くても」、それが前進することを望みました。そこで今日の箇所で、「これ迄のように、今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと、切に願い希望しています。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と語ります。

  彼にとっては、獄中の身も、自由な身も、信仰の表現を妨げられたり、その意志をすっかり砕かれたりするものではありませんでした。無論多くの制約が起こったでしょうが、外面的な拘束は彼の信仰を潰したり、根こそぎにすることはできなかったのです。

  ですから彼は、「これ迄のように、今も」と言います。何と雄々しい信仰でしょうか。彼は逆境に負けていません。

  彼は多くの獄中書簡を残しました。牢獄にいる時は、伝道している時と違って時間がたっぷりありますから、外との通信が許される時には努めて手紙を書いたのでしょう。テモテへの第1、第2の手紙も獄中で書かれましたが、第2の手紙2章に、「神の言葉は、繋がれたるにあらず」と書いています。この世は、彼を重い鎖につないでも、神の言葉は全く自由であって、いかなる力もそれをつなぎとめておくことは出来ないというのです。精神というものの自由さ、崇高さを感じさせられる箇所です。

  これは更に、イエスの、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も、地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉を思い起こさせます。

  江戸時代の末期、まだキリスト教が禁止されていた時代に、横浜にバラという宣教師が来ました。彼は聖書の翻訳に打ち込みながら何とか日本人への伝道をしました。彼は牧師でなく医者で、医療宣教師としてアメリカの教会から遣わされた信徒です。

  バラを助けたのが、奥野昌綱という武士の中の武士と言われた人で、仏教と儒教諸派、当時の日本のあらゆる学問に通じていました。彼はキリシタン禁令の時代に、キリスト教に回心して、打ち首を恐れずバラの翻訳と伝道事業を助けました。やがて彼自身も伝道者になりました。

  「彼らは、私の首を打ち落とすことはできても、私の魂まで打ち落とすことはできない。」奥野はそう語って、バラを支えました。

  「これ迄のように、今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと、切に希望しています。」このパウロの信仰は、奥野昌綱の信仰でもあったと言っていいでしょう。

  ここに「公然と」とありますが、「公然と」とは、公けに、世の人々に歴然と知られる形でという意味です。キリストの出来事は、私事(わたくしごと)ではなく、天地万物、世界と歴史の中の公けな事件であるからです。パウロにとってキリスト教信仰は、こそこそ隠すべき秘め事ではありません。世界の人たちに公然とあがめられるべき出来事です。キリスト教は、そういう公明性を持っています。

  パウロはそういう公け性をもつものとしてキリストを伝道したから、前回ありましたように、「兵営全体、その他の全ての人々に知れ渡り」ということが起ったのではないでしょうか。

                                 (2)
  そして彼は、「私の身によって」と言います。「私の身によって」。これは重い言葉です。彼はこの言葉で何を言おうとしたのでしょう。「身」というのですから、信仰に命を懸けるという事でしょうか。全身全霊を傾けた信仰ということでしょうか。確かにそういうことでもありましょう。

  彼は確かに、「生きるとはキリスト」とも言いますし、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」とも書くほど、苦難の中に身を置いています。

  だがそうはいうものの、彼はもう少し肩の力を抜いているのではないでしょうか。というのは、この手紙のあちこちに喜びが溢れているからです。彼は、肩を怒らせた緊張感からでなく、キリストへの喜びから、苦難と緊張を突き抜けた所から来る自由さをもって、喜びを抱き、感謝をもってこう語るのです。

  ヨハネ20章に、復活のキリストが弟子たちの間に入って来られて、「あなたがたに平和があるように」と、2度にわたり繰り返して語られたと書かれています。その後、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われたと記されています。短い箇所ですから、ちょっと見落としそうな箇所です。

  カール・バルトという信仰者は、キリスト者とは、「キリストによって息を吹きかけられた者たちのことである」と書いています。「キリストによって息を吹きかけられた者たち」とは、面白い見方です。

  聖霊は風に譬えられます。聖霊は、風のように、どこから来て、どこへ行くのか知れません。聖霊の働きは全く自由です。聖霊というのはキリストの霊のことですが、聖霊を受けるとは、自由を与えられること、自由の中に置かれることです。ペンテコステに弟子たちは、この聖霊を与えられました。その時、人々は、弟子たちの姿を見て、弟子たちがまるで新しいぶどう酒に酔っているかと思ったと、使徒言行録に書かれています。

  キリスト者とは、神によって、キリストによって、幾分酔っ払ったような所のある人々です。私たちはキリストを飲んだからです。聖霊を飲んだのです。聖霊は私たちを酔わせるからです。

  実に多弁な牧師が時々いまして、時々遠くから電話をくれたりします。相槌を打って聞いていますと、どうも酔っているようです。ただ、キリストに酔っているのでなく、アルコールに酔っているんです。神のスピリットに酔わなきゃあ、他のスピリットで酔っても仕方ありません。

  無論、私たちは無口であってもいいのです。ただ、無口であっても、キリストへの思いにおいて心に熱い思いを持っているのではないでしょうか。パウロが、「生きるにしても死ぬにしても、私の身によって、キリストが…」と、かなりテンションを高めて、まるで酔ったかのように語るのは、まさに「キリストに息を吹きかけられて」いる人であるからであり、その力に触れることによって獄中にありながら自由に、大胆にされたからです。

                 (つづく)

                                             2009年3月1日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの画廊のショーウインドー。)