生きる手ごたえ (下)


 
 
  
   
                                              フィリピ1章20-26節


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  さて、「キリストに息を吹きかけられた者たち」は、新しい酒に酔っているかのように見られましたが、じゃあ酔っているとすればどんな風に酔っているかというと、十字架と復活の香り、キリストの麗しい香りに酔っています。キリストの香りに酔って、キリストに応答していると言えます。

  キリストの香りに酔っていますから、キリスト者は、自分をも人をも、以前とは違った目で眺め始めるのです。

  ちょっと言いにくい恥ずかしい話しですが、私はアルコールは強くありませんが、酔いがまわると、女性が美しく見えます。美しい人は更に美しく見えるんです。これは私だけかと思って何十年も誰にも言わずに伏せていたのですが、この間あるものを読んでいたら、その人は私の尊敬する外国人ですが、やはり美しく見えるって書いていました。アッそうなんだと思いました。それで妻に話しましたら、女性も男性が魅力的に見えるらしいです。皆さんもそうでしょ?

  私は今、キリストの霊を飲むことをお話ししていますが、聖霊を頂くことによって、聖霊に酔わされて、以前とは違った目で人を眺めるのです。ただこの場合、自然にそうなるというのでなく、多分に意志が入っています。アルコールの場合は意志とは無関係にそう見えるから、男どもは、おかしいことが起らないように用心しなければなりません。

  あちこち行きましたが、要するにキリストに酔わされて、キリストが私をご覧になり、キリストが人をご覧になるように、私は私自身の目でなく、キリストの目をもって私を見、人をも見るように導かれるのです。

  言葉を変えて言えば、自分も人も、絶望の目で見ないのです。孤独の目、冷たい、裁きの目で見ないのです。温かい目で見るのです。「全ての者のために、最上のことを望む」のです。バルトはそう言います。最上、最善のことが、その人に起こるように望んで行くのです。これは、祈り心をもってその人を見るということです。

  キリストの目は恐ろしい目ではありません。人を脅す目ではありません。温かい目、柔和な目です。平和の目です。

  更に別な表現で言えば、キリストに対して耳を澄まして生きる。羊たちが、羊飼いの声に耳を澄ますように、実社会の中でもキリストの声を聞き分けようとするのです。聞くだけでなく、キリストの呼びかけはどんな意味かを考えるのです。耳を澄まし、心を澄まし、自分に言われている意味を考えるのです。

  それは、内的な耳を、心の耳を持って生きることです。それは、キリストのみ業に感謝して生きることでもあります。更に、キリストの言葉を生きようとし、キリスト故に、人に対して信頼を抱くのです。不信の時代ですが、キリストが現実に存在しておられる故に、人に信頼を抱き、信頼できる社会を創り出そうとするのです。

  パウロが獄中にあっても、自分の身において、キリストが公然とあがめあっれるようにと切に願ったのは、こういうことです。

  これが、キリストが私たちに息を吹きかけられる時に、私たちの中に起きる自由さです。内側に起る、そうしたいという自発的な自由な行為です。喜びです。即ち、私たちは、自分と人に、希望を捨てるのでなく、忍耐し、望みを持って見るのです。すなわち愛をもって眺めるのです。キリストに息を吹きかけられた者には、そういうことが起こります。

  今、木曜日の祈祷会は、コリント前書13章の、「愛は寛容であり、愛は情け深い…。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。愛は決して滅びない」というところを学んだ所です。キリストに酔うとき、「全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」という、この愛の目をもって生きたいということになります。

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  これが、「生きる手ごたえ」を作り出します。周りの人に、希望の眼をもって働きかけること、それは「生きる手ごたえ」を生みます。どうして、人々に「最良のもの」を望み、善のみを望んでいく生き方に、生きる手ごたえが与えられない筈があるでしょうか。

  これは、何ぼもうかったかという「手ごたえ」とは、根本的に違います。これは愛の手ごたえです。

  しかし、愛によってなす事柄はすべてうまく行くでしょうか。人生はそんなに甘いものではありません。

  私たちの結婚式は川崎の在日韓国人教会でいたしましたが、式の後のすし詰めのお祝いの会で、妻の父親は私たち2人に、「人生は、甘いもんやおまへんで」というスピーチをしました。ただ出席者は殆どがキリスト者です。それで、まるでそこに集まった、父からすれば霞を喰って生きているように見えるクリスチャン全体に、「人生は甘いもんやおまへんで」と、言ったようにも聞こえました。

  人生は、本当に甘いものではありません。愛をもってしても、キリストは十字架につけられ、弟子たちも多くの苦難を経験しました。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです」とありますが、キリストとは十字架であり、苦しみのことですから、パウロにとって生きるとは十字架であり、苦難を受けることだと言っているのです。彼も決して人生を甘く見ていません。

  にも拘らず、希望を捨てるのでなく、忍耐し、望みをもって人と社会を、また自分をも見て行く。パウロはそれを獄中でもして行くのです。

  今日はここまでにします。キリスト教における「生きる手ごたえ」は、キリストであり、神です。「私の身によってキリストが公然とあがめられる」手ごたえ。そこに最高の喜びがあります。

                   (完)

                                            2009年3月1日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;丘の上にある町ヴェズレーの公共の井戸。今は使われていませんでした。)