「獄中に光があった」 (下)


 
 
                                               
                                              フィリピ1章12-19節
    
                                 (3)
  …今日は、「獄中に光があった」という題です。パウロがそこにいることによって、暗黒の牢獄に光が射したのです。

  パウロは独房にいたか、雑房に入れられていたか分かりませんが、人々は、いかなる権威をも恐れず、屈しない人間に接し、しかも謙遜の限りを尽くして誠実に生きている一個の人格に触れたに違いありません。彼は、自分がキリストの使徒たちの中で一番小さい者であり、月足らずで生まれたような屑のような存在であることを彼らにも証ししたでしょう。また、キリストはご自分を処刑する者たちのために執り成された方であり、十字架に一緒に磔にされた犯罪人のためにも執り成しをされたことを大胆に証ししたし、獄中の人たちはそれを自分への執り成しとして聞いたでしょう。しかも、罪と弱さと臆病の中にある人間を主はよく分かっておられ、十字架において罪を赦し、キリストの復活において希望が与えられることも説いたに違いありません。

  このようにして、「獄中に光があった」のです。しかし、その光は、獄中ばかりでなく外部の人々を励ましました。パウロの入獄により、主に結ばれた兄弟の多くの者が、パウロの捕われているのを見て、「確信を得、恐れることなくますます勇敢にみ言葉を語るようになった」のがそれです。

  試練の中にある一人が、その所で、堅く信仰に立つことが他の人たちを堅く立たせるのです。家族の中でも、たった一人でもキリストに堅く立つ人が出て来ると、必ずその家は救われます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族全体も救われます」とあるのは、本当のことです。

                                 (4)
  Sさんという方がおられました。鬱病と強度の神経症で、10年ほど入院していましたが、残念にも5年ほど前に亡くなられたと聞きました。彼は秀でた青年でしたが仙台で信仰に入り、東京では私の恩師のS先生と連絡を取りながら入院を続けて、精神病院の中から通信を出し続けて、それが優れた本になって出されました。だいぶ前です。

  彼は、「精神病院の内部にあって、主にお仕えする道はないものかと、思案し続けていた」そうです。そこにも、キリストの光が届いていることを、ぜひ告げたかったのでしょう。また、「神の救済の日はまだ来ない。しかし、救済のその日には、精神病棟は先ず最初に主にお会いできる場所であることであろう」と書いています。

  精神病院は牢獄ではありませんが、しかし、そこにも光がある。光が来ている。キリストがおられることを、彼は告げようとしたのでしょう。そこが、先ず最初に主にお会いできる場所だと、告げたかったのです。志半ばで倒れましたが、そのお気持ちが本当に分かります。牢獄にも、精神病院にも希望の主がおられます。そこは神の空白地帯ではありません。

  それと共に、問題が錯綜して、解決の目途がつかない所に置かれているどんな人たちにも、光が、希望のキリストが来ておられます。そして私たち小さい者、愚かな者、罪に満ちた者の所にも、憐れみの光が落ちています。「獄中に光があ」って、どうして私たちの置かれている所に光がないでしょうか。もしないなら、まだ発見されていないだけです。光は来ているのですが、見つけられていないだけなのではないでしょうか。

  キルケゴールは、「キリストの十字架に向かって吐かれる、あなたの唯一つのため息さえ、それはすでにもう信仰である」と書いています。

  ハンマーで叩き割っても割れない、堅固な岩のような信仰だけが信仰ではありません。キリストに吐く弱々しいため息も、キリストはすでに信仰であると受け入れて下さることを知れば、その人の所にもう光が届いていることを発見する日は間近いでしょう。

  キルケゴールの言葉は、前に紹介しました、「神は、人間のどんな言葉も理解されます。沈黙の内に神の近くに留まること、それはすでに祈りです」というブラザー・ロジェの言葉に通じないでしょうか。

  キリストの光が届かない場所はありません。キリストの恵みのご支配から漏れる所もありません。獄中にも光があり、私たちの所にも、既にキリストの光は届いています。

  詩編139編に、「闇の中でも主は私を見ておられる。夜も光が私を照らす。闇もあなたに比べれば闇とは言えない」とあります。キリストが経験されたものすごい闇。その真の闇、虚無の闇に比べれば私たちの闇は闇とは言えないほどの闇です。しかし、個々人にはまったき絶望の闇に見えるところも、主の光に照らされていると知るならば絶望さえも光を放つようにして下さるのです。

  詩編は更に、「夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」と語っています。キリストにある時、夜も昼も同じように光を放つのです。闇も光も、変わることなく主のために用いられて行くのです。
  
                  (完) 

                                           2009年2月22日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの絵本とオーナメントのお店。)