獄中に光があった (上)


  
  
  
  
                                              フィリピ1章12-19節

                                 (1)
  パウロが伝道し、ヨーロッパで最初に生まれたのがフィリピ教会でした。しかし、その教会はまだ教会の建物を持っておらず、誰かの家で集まる「家の教会」であったでしょう。そういう初期の教会の姿をとどめていたと思われます。

  この教会は、パウロにこよなく愛された教会で、彼はいつも感謝をもって思い起こしていたようです。パウロは、彼らのことを、「私の喜び」と書いていますし、「私の冠である」とさえ言っています。皆さん、ご家庭で「君は、僕の喜びだ」って言っています?「あなたは私の冠だわ」って。ええ?気持ち悪がられますって?まあ、冗談はともかく、パウロにとってフィリピ教会は真に誇らしい教会だったんです。こよなく愛したのです。

  そのフィリピの人たちを励ますために、今、パウロの身辺に起っていることを書き送ったのがこの手紙です。それで今日の所で、「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と記すのです。

  フィリピの人たちは、パウロが捕らえられたことを知って、大変心配していたでしょう。処刑されるかも知れないという緊張感すら、彼らの間に走っていたかも知れません。ローマからフィリピまで直線距離で1千kmほどです。当時は大回りした船旅ですから3千kmほど離れています。人々は、やきもきしてパウロの身の上を案じていたに違いありません。

  そこへ、「私の身に起ったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」という手紙が届いたのです。フィリピの人たちは小躍りして喜び、悲しみに沈んでいた「家の教会」は、喜びに沸き立ったことでしょう。

  50周年の記念誌を出そうとしていますが、皆さんが努力して下さって、B5版で130頁になります。最初の見積もりが100頁で100冊、50万円でした。それじゃ出来ませんと、色々交渉しましたら、32万円の見積もりが来ました。その後、こちらでかなりの所まで編集して、殆ど印刷製本して頂くだけにしますからと交渉しまして、少し根を詰めて作業しましたら、28万円程まで下がりました。しかも100頁でなく130頁で、です。役員の方にも、まだ途中までしか報告していませんでしたが、今日、130頁で150冊、28万円とご報告します。きっと喜びで沸き立って下さるだろうと思っています。

  また、北支区から10万円の援助を受けましたから、50万円のものを僅か18万円で立派な50周年記念誌が出来そうです。出版の暁には全員で喜びに沸き立ちましょう。

  いずれにせよ、フィリピの小さな「家の教会」は、私の報告とは次元が違いますが、パウロからの報告に喜び溢れた筈です。

                                 (2)
  では、福音はどう前進したのか。「私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他の全ての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕われているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、み言葉を語るようになったのです。」

  危機が転機になり、好機さえも生まれたのです。創世記にヨセフという人が出てきます。兄弟によってエジプトに奴隷として売り飛ばされたヨセフに、主が共におられました。やがて侍従長に仕えますが、主が共におられるので、ヨセフのすることは全て祝福されることになります。しかし、侍従長の妻から濡れ衣を着せられ彼は投獄されます。ところが、投獄された彼にも主が共におられ、獄中に関わらず恵みを施されるのです。そして、やがてヨセフはエジプトの大王ファラオに仕え、エジプトの総理大臣に抜擢されます。彼は兄弟たちからは捨てられましたが、主は彼と共におられたのです。

  獄中のパウロにも主が共におられたのです。そして危機こそ新しい転機になります。

  今の世界の経済的危機も、もしこれまでの行き過ぎた資本主義のあり方を根本的に見直す機会として受け取るなら、この危機は世界の新しい転機になるに違いありません。今、世界の意識ある人たちは、この危機を、新しい世界の産みの苦しみとして与えられたと捉えています。しかし日本の姿を見ていますと、資本主義の行き過ぎを見直すという視点はまったく感じられません。一体これでいいのか、先進国から思想的に取り残されないかと心配です。

  さて、パウロが投獄されたのです。豚箱にぶち込まれるということは、何らかの悪事を働いたからであり、法を破ったからです。ところが、パウロが豚箱に入れられたというので、喜んだ人たちもいたようです。彼らはクリスチャンでありながら、妬みと争いの念にかられて、獄中のパウロを「一層苦しめようという不純な動機」で働いていたとあります。

  とんでもない信仰者たちです。でも、パウロは気にしません。不純な動機は裁かるべきですが、彼はそれに負けていません。気に病まないのです。

  彼らは、パウロの背後に、何か隠された悪事があるのだろうと邪推したに違いありません。人は経験上、人間には裏表があることを知っているからです。建前はそうでも、本音は違うことが殆どだからです。マスクを剥せば、パウロの素顔も違うのでないかという疑りです。

  ところが、獄中にあってパウロは、いかなる不正や悪事を働いたわけでなく、ただ人に希望を授ける福音、キリストを宣べ伝えていることが分かり、ただその一点で投獄されていることが分かったのです。しかも、獄中にあっても信仰の確信をもって、同房の者たちにキリストを宣べ伝えている。牢屋の中でも、「堅く立って動かされず」、キリストの福音に生きている。「キリストの日に備えて、清い者、咎められる所のない者と」なろうとしている。そのことが、「兵営全体、その他の全ての人々に知れ渡ったのです。」

  家族に信仰を伝えることは難しいことです。足元を見られていますから、口先でどうなるというものではありません。獄中でもやはりそうでしょう。

  福音は生き抜かれてこそ伝えられます。言葉や口先では伝わりません。神の前に出、嘆き、祈り、求め、訴え、また神の言葉に耳を傾けることが重要なのは、そこにあります。そして、生き抜かれる時、獄中の荒くれ男たちにも福音が確実に伝播していくのです。牢獄もまた人間の世界です。人間社会の裏側から知った者たちが集まっている所です。暗黒を知っていますから、一層真実に対しても敏感です。

  私は、短い期間でしたが刑務所に行きました。今、エッと思ったり、やっぱりと思ったりした方があったかも知れません。だが服役していたのでなく、キリスト教教誨師として重い扉を何重も開けて、月一度、受刑者たちに面会し、キリスト教の話をしに行きました。

  キリスト教の講座は人気がありまして、20人以上が集まりました。無論そこには刑務官も見張っていますが、最初は恐ろしかったです。受刑者と会話をしちゃならないと思って一方的に話していましたが、彼らの質問に答えて会話ができると知って、彼らと話してその考えが分かると気持ちがほぐれて、普通の人間だと分かりました。

  次第に分かったことは、刑務所というのは、悪事を働く、性格も考えも異常な人間が入っているのではありません。普通の人間です。それが分かるのに何ヶ月もかかりました。そして彼らのことが分かると、ますます真剣によく聞いてくれました。

  獄中で、パウロはキリストのために監禁されていることが知れ渡り、福音は伝播して行ったのです。キリストはそこまで人間を変革するのか。また、キリストのために、神のためにここまで尽くせるものなのかと、福音の力とその深さ、その現実的な力に人々は触れたのです。こうして獄中からキリストの福音が伝えられて行った。これは驚くべきことです。

              (つづく)

                                           2009年2月22日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真;ヴェズレーの自由に入れるアトリエ。)