「あなたを迎えるイエス」 (下)


  
    
                                               
                                              第一コリント9章19-23節
      
                                 (3)
  今日の箇所に続く24節以降で、競技場で走る人々、アスリートのことが出て来ます。パウロは、福音が広められるためには節制が必要だと言っています。自己訓練が必要であり、自分を打ち叩いて服従させることも必要な時があると語ります。キリストの弟子たちは訓練されなければならないと言うのです。

  パウロは、夢見る夢想家ではありません。リアリストです。現実家、実際家です。彼は全ての人に対して全てのものになったと言いますが、全ての人がキリストのメッセージを受け入れてくれるわけではないことを知っています。と言っても、その事実が彼を落胆させることはなかったのです。

  競技場の比喩は、彼の福音宣教のたゆまざる挑戦を想像させます。「自分を打ち叩いて服従させる」とは、何と逞しい態度でしょう。

  パウロはこのような人であり、非常に熱心に働き、伝道の成果を上げました。ところが彼は、いささかもそれを誇らなかったのです。それが先ほどの16節の、「私が福音を告げ知らせても、私の誇りにはならない」という言葉です。何と自己抑制の効いた人物でしょう。

  いや、自己抑制からでなく、彼は自分の罪と愚かさ、弱さと限界を知っていたからです。だが、そんな欠点が無数にあるのに、神は働いて下さっているという神への信仰、信頼は揺るぎないものがありました。

  今から450年程前に書かれた、「ハイデルベルグの信仰問答」という信仰の入門書があります。以前それをご一緒に学んだ方々もここにおられます。その第一問は、「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一つの慰めは何ですか」とあり、答えは、「私が、生きている時も死ぬ時も、私の体も魂も私のものでなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることであります」となっています。

  私たちは弱さも愚かさも罪も欠点も多くある。だが、私の体も魂も私のものでなく、私の真実な救い主のものである。そこに私たちの慰め、唯一つの慰めがあるのではないでしょうか。だから、パウロは誇ろうとしないし、どんなことにも落胆させられることはなかったのです。

  人類の歴史は罪と醜いもので満ちています。教会の歴史もそうです。自分の歩んで来た所を振り返っても、罪と恥ずかしい事が一杯でした。皆さんはそうではないでしょうが、私はそうです。そのような真っ黒けがあったに拘らず、その中心にキリストがいて下さった。そのことが救いでした。中心において、キリストが十字架につけられ、甦って下さっていたのです。

  ですから、私たちの人生には数々の過ちがあっても、それでも天創造の初めにあったように、神が見られた所、「甚だ良かった」という慰めの福音が、不合理ほどの慰めの福音が、あなたは「よし」という福音が私たちの人生に語られることになるのです。

                                 (4)
  パウロにはキリストは唯一つの慰めでした。しかし、深い慰めだからこそ、イエスの復活の命が自分の体を通して力強く現われるようにと考えるのです。

  私が一度行ってみたい所があります。万里の長城です。英語で Great Wall、偉大な壁、巨大な壁と言います。大文字で書きます。現在は僅かに残るだけですが、それでも2,500Kmはあるそうです。2,500Kmというとほぼ北海道から沖縄まででしょう。元々は5万キロあったそうです。5万キロとは、どの位かというと、地球一周が約4万キロです。地球一周より万里の長城の方が長かったのです。まさに偉大な、巨大な壁です。

  中国の人たちがその壁を築いたのは、遊牧民などから外敵を防ぐためでした。ところが、歴史が示す所は、外敵を防げなかったのです。なぜか。帝国の内部から崩壊したからです。帝国内の腐敗が崩壊の原因でした。敵は我が内にありです。これは社会においても、個人においても真理です。

  ですから私たちも信仰において、クリスチャンだ何だと言ってGreat Wall を築くことだけをして、内部から腐敗してしまうのじゃあ、何にもなりません。

  だから、パウロは、「キリストの命が自分の体に現われるように」と願うのです。あるいは、先ほどもありましたが、「自分の体を打ち叩いて服従させる」のです。それは、他人に宣べ伝えておいて、「自分の方が失格者になってしまわないためです。」

  パウロは、「ユダヤ人には…ギリシャ人には…律法に支配されている人には…弱い人には…全ての人には…」と語りました。自慢でこう言っていません。殆どクリスチャンがいない社会の中に散らされている人々に、自分の実例を示すことによって、励まし、勇気を与えるためです。そして彼自身は、キリストの模範に従うのです。

  福音を信じることと福音を語ること、そして生きることは堅く関係し、一体です。一体だからこそ、競技場の選手たちのように節制し、訓練し、自分の体を打ち叩いて服従させるのだというのです。「それは、他人に宣教しておきながら自分の方が失格者になってしまわないためです。」「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

  パウロは誇りません。皆と共に、キリストの福音に与る者にして頂こうと歩むのです。   (完)


                                      2009年2月15日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ヴェズレーにやっと降り立つ。)