「あなたを迎えるイエス」 (上)


  
  
                                               
                                              第一コリント9章19-23節
   
                                 (序)
  「全て重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」とイエスは言われました。またヨハネ福音書は、「全ての人を照らすまことの光があって、世に来た。彼は世にいた」と書いています。

  私たちの信仰は普遍性の心を持つものでなくてはなりません。排他的な、狭いキリスト教であってはなりません。キリストが十字架に磔にされて両手を広げられたのは、両手を大きく広げて全世界の全ての人を迎えるためです。磔にされながら、その十字架の場を用いて世界の人々を迎える確かなしるしとして、両腕を大きく広げられたのです。

  キリストは暗い夜にもともし火を灯していかれました。キリストは、僅かな信仰者のために来られたのではありません。万民のために来られたのです。それが、「全ての人を照らすまことの光があって、世に来た」という言葉でヨハネ福音者が語り、キリストご自身が、「全て重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい」といわれた意味です。

                                 (1)
  今日お読み頂いた、コリントの信徒への手紙を書いたパウロという人は、火のような、まっ赤に燃える炎のような人です。その生涯は、キリストの福音を宣べ伝えたいという切なる願いによって満たされ、その願いに駆り立てられているかのようです。今日の直ぐ前の16節に、「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはおれないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」と述べた所からも、彼の熱情の一端が窺えるでしょう。

  きのうはバレンタインデーで、義理チョコも売れたでしょうが、本命へ人のチョコもあちこちで渡されたに違いありません。人間にはどうして欲望、願望、切望、異性と一つになりたいという激しい欲求があるのでしょう。何がこんなにも熱烈な火を付けるのでしょうか。

  一生のトラブルの元になるかも知れないのに拘らず、です。むろん愛と平和も訪れ、緑豊かな赦しのある家庭も作られるでしょうが、中には性のために暗澹たる人生の船旅をしなければならなかったり、嫉妬の苦しみに身を焦がしながら生きる場合も多くあります。バレンタインデーの後、過酷なバトルが待っている人もあり、悦楽の日々が待っている人もあり、若い人たちは色んなことを経験するでしょう。

  そうした欲望、願望、切望、熱情、欲求とは違って、それ以上の熱さをもって、パウロは「私はそうせずにはおられない」、そうしなければ不幸だと言うのです。前の訳では、「もし福音を宣べ伝えないなら、私は禍である」となっていました。又、その火のような熱情をもって、23節では、「福音のためなら、私はどんなことでもする」と言っています。

  彼がもし変な宗教や人間に引っ掛かっていれば、きっと大変な生涯を送ったことでしょう。「どんなことでもする」と言うのですから、腰を抜かすような悪事を仕出かしたかも知れません。

  だが、復活のキリストと出会いました。それが彼を変えました。彼は、キリストによって人生と世界への目を開かれ、自分と神への目を開かれました。それが転機になりました。そして、「福音のためなら、どんなことでもする」という程、キリストを愛し、福音の真理によって心満たされ、存在の根本、一番深い所から変えられました。彼が、「福音のためなら、どんなことでもする」と言うのは、彼の魂の必然であり、幸せであり、喜びであり、歓喜であり、感謝となったからです。

  ですから、福音を宣べ伝えないなら、私は禍である。何と悲しいことかと、恥じずに語っているのです。このことは、ロマ書1章で、「私は福音を恥としない。それはユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」とあるのと相符合します。

  彼はローマ帝国のいかなる宗教、文化、思想の中にあっても、福音を恥じませんでした。なぜなら、これは万民を救う神の力だからです。

  彼はこの力によって体も心も魂も満たされ、圧倒され、占領され、人生観も価値観もすっかり変えられ、復活のキリストとの交わりという新しい生活が始まったのです。そしてこのため、彼は今や、キリストを知らない人たち全てに、キリストにおいて現わされた神の愛を伝えて行きたいと思うに至ったのです。

                                 (2)
  使徒パウロは、今日の所で、力強く雄弁に、福音を伝える奥義のようなもの、鍵になるものを明らかにしています。

  彼は、色んな人と同じになったと語り、反対の人たちと同じ姿になったというのです。「私は誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法に支配されている人に対しては、…律法に支配されている人のようになった。律法に支配されている人を得るためである。律法を持たない人たちには、…律法を持たない人のようになった。律法を持たない人を得るためである。弱い人に対しては、弱い人のようになった。弱い人を得るためです。全ての人に対して、全てのものになった。何とかして何人かでも救うためです」と言います。

  優れた批評家は、単に相手をあれこれと批評しません。相手が考えている最も深い所に自分も身を置いて、そこで相手と一緒になって考え、相手がまだ気づいていないことにも目を留め、相手が今後どういう歩みをするかを見通しつつ、批評します。真の批評は、相手を知り、相手と一つになり、しかも相手を越える視点を出します。

  パウロもそれに似た事をしたのです。私たちは、先ず相手に同意しなければ対話は成り立ちません。同意して、それから一緒に次に発展すればいいんです。子どもに対しても、同僚に対しても、家族や仲間に対してもそうではないでしょうか。最初から、相手をバン、と切り捨てるところからは、建設的な対話、建設的な人間関係は始まりません。パウロは、そういうことをしないと言うのです。

  ということは、彼は本当の意味で自由だったと思います。相手を恐れなかったのです。何より、自分から自由だったのです。自分を、一時捨てることもできたのです。また、一般的な社会通念によって邪魔されずに、相手の懐に飛び込んで行けたのです。そうしても、自分を失うことがなかったのです。

  キリストにある自由はそういう奥義を授けるのです。もっと深い、人間関係の奥義を私たちに授けるかも知れません。キリストはそういう奥義に私たちを導かれます。

  パウロの関心は、全ての人に例外なく命の言葉である福音を伝えることにありました。なぜなら、キリストは万民のために死に、万民のために大きく十字架で両手を広げ、万民に希望を授けるために甦られたからです。パウロは、自分のような人殺し、教会の迫害者をも、キリストは愛して下さり、キリストの内に迎えて下さったという喜ばしい事実の故に、そうしたのです。

  イエスは誰も排除されませんし、締め出されません。即ち、誰もこぼさず、私やあなたを全て迎える神です。

           (つづく)

                                      2009年2月15日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、町の入り口から見たヴェズレー。)