「動揺せず生きよう」 (上)


  
  
  
  
                                              詩編62編2-13節
                                              ヨハネ5章19-30節

                                 (1)
  今日は、ヨハネ福音書の方でなく、主に交読をしました詩編62編からみ言葉を聞きたいと思います。

  その2節に、「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。神に私の救いはある。神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔。私は決して動揺しない」とありました。ご経験のある方はきっと同意して下さると思いますが、魂が静まって、ただ神に、キリストに向かう時、人は無心になることが出来ます。人のことや自分のこと、世界の色んな事柄はありますが、一旦それをそこに置いて、ただ神に向かって努めて心を向けるのです。すると、命の根源である神との関係が生まれますから、心は要らぬものをそぎ落とされて、単純になりシンプルになり、安らぎが生まれます。また、澄んで来ます。

  私たちは社会の中で生きていて、誰もこの社会から出て行くことはできません。そこでは、人との関係、やり取り、交渉はやむなくついてきます。それで、時にはそこにおいて、心が波立ち、動揺し、対抗したり、競い合ったり、心の休まることがなくなってしまうことがあります。

  今、不況が急に起って、急なためにまだそれを実感していない方もあるでしょうが、多くの人が失業したり、住む場所を失ったり、経済と生活のピンチに立たされている人たちが出ています。そういう方々にとっては、相当に大きな動揺が襲っている筈で、心の休まらない日々を送っておられることでしょう。この世の悩みはきついものがあります。

  ですから、2節と違って6節では、今度は自分に向かって命じます。「私の魂よ。沈黙して、ただ神に向かえ。」命の根源であられる神に、魂を向けさせねばばならないのです。色んなことがあると、中々心をそこへ向けられないのが私たちです。だから、「私の魂よ、神に向かえ」と敢えて命令しなければならないのです。

  世から顔を背けるためではありません。逃避のためではありません。むしろ世に立ち向かうためです。イエス様が、「あなた方はこの世では悩みがある。だが勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」と言われました。この方に従って、勇気を出して世へと向かって行くためです。

  あるいは、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな」と語られるキリストによって勇気を授けられるためです。

  そのために、私たちは自分を神に向かわせ、神に向かうことを自分に課さねばならないのです。この信仰者は、そう考えています。

                                 (2)
  ある大教会で、新しく会堂建築をすることになった時に、ある大会社の社長であられた役員さんが強く提案したことがありました。それは、どうにかして牧師達を支えたいという切なる思いから出たことです。善意からですが、説教に命を懸ける牧師達には、牧師室に疲れを癒すベッドやシャワー室がある小部屋を作るようにということでした。

  私たちの教会では考えられないことです。

  長く企業のトップで働いて来て、牧師にも必要だと思われたのでしょう。キリストと教会に、自分として仕えるにはどうすればいいのかを考える中での提案だったようです。

  しかし、ベッドやシャワー室はなくても、「沈黙してただ神に向かう」、そういう場が牧師には必要です。そして、本当はどんな人間も努めてそういう神の前で一人になる時間と場所を作ることが必要です。キリスト者はそのような場を確保することによって命の力を回復するのです。ヨーロッパに行きますと、昔の家、貴族の館には個人の狭い祈祷室があるのはそのためです。電車の中でもいいんです。神に向かうことが必要です。

  なぜなら「神に、私の救いがある」からであり、「神にのみ、望みを置いている」からです。そして、神が、「私の岩、私の救い、砦の塔」であることが明らかになるに従い、またそのことが強く信じられるに従い、「私は決して動揺しない」ということへと導かれるからです。

  今日のヨハネ福音書の方で、イエスは、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」とおっしゃり、「私は自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く」と言っておられます。イエスも、父なる神の前に静まり、ただ神にのみ向かわれたという事でしょう。実際イエスはしばしば淋しい所に退き、祈られたとあちこちに記されています。

  新約聖書では、岩はイエス・キリストを指しています。イエスは甦られました。黄泉の力に打ち勝ち、勝利されたのです。死の力も、もはや究極のものではありません。イエスの甦り、それは一切の世界の歴史と、教会の歴史と、文化の歴史の根底に横たわる岩となりました。このキリストの勝利の岩は決して揺らぐことはありません。

  キリストが人類の根底にある岩であり、この岩は恵みの岩、勝利の岩であることが分かる時、また岩なるキリストの前にある時、「決して動揺することがない」ということへと導かれるのです。

                                 (3)
  この信仰者は、今、特異な所に立たされています。それは4節以降に、「お前たちは、いつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う」とあることから分かります。

  職場や色んな所でこれに似た経験をしたことがない方は、ラッキーだと思います。職場は皆すごくいい人たちです、と言う方は幸せだと思います。だが、特異と言いましたが、生き馬の目を抜く、自分の利益を得ることに極めて素早い実業界にあって、「一団となって押し倒そうと謀る」人たちを経験している人もあるかも知れません。そういう一団に押し倒されそうな立場にある時は、本当に辛くきついものです。

  この詩編の信仰者は厳しい世の現実に置かれていたのでしょう。

  しかも、表面上は「口先で祝福」します。口先だと容易に見抜けない事もしばしばです。しかも、「口先で祝福し、腹の底で呪」っている場合もあるのです。それは直感で感じるんですが、証拠がありませんから、いかんともし難く、もし証拠もなく感情的に責めたら、返って責め返されたり、総攻撃を受けるに違いありません。

  だからこの信仰者は、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに、心を奪われるな」と、自らを戒めるのです。このような状況に置かれた場合、ベストな生き方が、「神の前に沈黙して向かい、…動揺しない」で生きることです。

  この信仰者が2度にわたって、ほぼ同じ言葉を繰り返しているのは、単に詩的なレトリックではありません。実にこれが大事だからです。ここに信仰者の拠り所があるからです。

                                 (4)
  今の時代の中でこれを読むとき、私は、ここに言われている、「人間に襲いかかり、押し倒そうと」するものは、単にプライベートなことに留まらないと思います。先ほども少し触れました、今、社会が直面している経済不況と厳しい労働環境なども、人類に襲い掛かっていますし、地球環境の悪化や資源の枯渇の問題なども、やがては人類に襲いかかって押し倒そうとしている現実だと思います。今年は暖冬だそうですが、北極ではこれまで氷が張っていた所も氷が張らないそうで、温暖化が私たちを襲おうとして足元まで迫って来ているようです。あれもこれも、誰かの責任でなく人間自身の仕業であり、責任ですが。

  先週、前のイギリス首相のブレヤさんがアメリカに渡って、オバマ大統領も出席する朝食祈祷会で話しをしました。ブレヤさんは首相を退いてから、今、盛んに信仰の必要性を訴えています。彼は人類に襲いかかっている何ものかを感じているようです。これまで殆ど信仰について発言しなかった人ですが。

  今度もその祈祷会で、「信仰が正しく位置づけられて、世界の将来を導くように」という話をしました。その中で、21世紀は「精神的に貧しい時代」になっている。「志が卑しくなっている。」そうした時に、神を信じる信仰によって人類が守られる必要があると語っていました。

  日本の政治家の発言を見ても、「志の卑しさ」を多くの人が感じているのではないでしょうか。

                 (つづく)

                                     2009年2月8日

                                        板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、山の上にある巡礼の町ヴェズレー。周りは深い谷です。)