家庭に不可欠なもの (下)


                   (今日の写真は、ホントネーからヴェズレーへ向かう道)  

    
                                                 
                                              マタイ福音書18章21-35節
  
  
                                 (5)
  イエスはこの譬えによって、私たちが何回まで赦せばいいのかと赦しに制限を加えて、それを越えたら裁こうとする私たちに、この譬えを鏡にして自分の姿を映し出して考えなさい。神がどれ程あなたを赦しておられるかを考えなさいと言っているのではないでしょうか。

  「私があなたにしたように、お前も、自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」この言葉は、私たちへの問いであります。中々赦そうとせず、返って恨みを募らせるのは、神の莫大な赦しを受けている者にとっては、筋が通らないのでないか。あなたも彼らを憐れんであげるべきでないかと言うのです。

  教育的な厳しさは必要です。ルールもなくてならぬものです。だが赦しが必要な時に、私たちはなぜ赦さないのでしょう。赦せば、相手への教育にならないと言うのでしょうか。なぜ痛いお灸が必要だと言うのでしょう。なぜ腹の虫を治めることが出来ないのでしょうか。

  結論を言うと、信仰が正しく正鵠を射れば、必ず赦しの道へと導かれます。今はそれが出来なくても、やがてそれが出来るようにと信仰者は誰しも願っています。イエスは赦されました。この方は道であります。真理であり、生命であります。ですから、それがイエスに従う最高の道、王的な道、キリスト者の進もうとする王道だからです。

  相手を変えるために赦すのではありません。ただキリストが赦して下さった故に赦すのです。神が赦された故に赦すのです。赦されている事に目を留めることが大事です。

  「モモ」という大人にも読みごたえのある童話があります。そこに街の道路掃除夫ベッポという、無口なおじいさんが出てきます。何を聞かれてもニコニコしているだけです。余りしゃべりません。時々話しますが、考え考えゆっくり話します。時には、話が途中で切れて、その続きが翌日になる場合もあります。だから皆に馬鹿にされています。

  彼は小屋のような粗末な家に住んで、長年街の道路掃除夫をして来ました。町が寝静まっている夜明け前に、自転車を走らせてビルの中庭に仲間と集まり、ほうきと手押し車をもらい、指示された場所に行ってゆっくりと着実にやります。「一足進んでは、一呼吸し、一呼吸ついては、ほうきで一掃き」します。「一足、一呼吸、一掃き」です。とても長い道路を受け持つ時があります。それでも、一足、一呼吸、一掃きという仕方を変えません。

  ある時、この無口なベッポが珍しく口を開いて、少女のモモに話をする場面があります。「もし、恐ろしく長い道路を受け持った時、これじゃあとてもやりきれない、と思って、せかせか働き出し、どんどんスピードをあげて行く。だから益々すごい勢いで働きまくる。というのは、心配でたまらないからだ。(恐れと不安の余りそうしてしまう。)ところがしまいに息切れして、動けなくなる。こういうやり方はいかんのだ」と言います。

  それからしばらく考え込み、だいぶたってから、「一度に道路全部のことを考えてはいかん。次の一歩だけ、次の一呼吸のことだけ、次の一掃きのことだけを考えるんだ。いつもただ次の事だけをな」と言うのです。

  まるで、「明日のことを思い煩うな。一日の苦労はその日一日だけで十分である。明日のことは、明日自らが思い煩う」と言われたイエスの言葉を、変奏曲で聞いているような感じです。

  そしてまた一休みして、考え込み、やおらまた先を続けて、「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな。楽しければ、仕事がうまくはかどる」と言います。

  とても示唆的な言葉です。家族の間で、職場で、色んな社会で、私たちは人間関係に悩みます。張り合ったり、口を利かなくなったり、向こうが謝ればこちらも謝ろうとか、赦してやろうと思っているわけです。また、何回赦すのか、7回赦すのか、ずっと先まで、490回、そんな所までほぼ無限に赦し続けるのか。だとすると気が遠くなります。

  だが、そんなことは考えないのです。ずっと先を見るのでなく、いつもただ、今、赦すことです。ただその事だけをして行く。それを丁寧にしていく。すると赦すことも楽しくなるのです。なぜなら、赦す時、自分が自由であることに気づくからです。赦せない者を赦すと自分から自由になります。相手からも解かれます。心に春が訪れるからです。イエス様が近くなるからです。イエスのほほ笑みが感じられるようになるからです。イエスのほほ笑みを感じるということが大事です。

  もう一度言います。何回赦したかという、細かい視点ではないのです。ただ素朴に、神がお赦し下さった故に赦すのです。相手を変えようと言うような、大それたことではありません。単純にイエスに従う。誰もが出来る愚かな行為です。福音の愚かさに生きる行為です。パウロは、十字架は愚かだと語りました。イエスは十字架という愚かさの道を選ばれました。福音に生きるとは、ただ単純にイエスの愚かさに従う事です。

  神をしっかり愛して下さい。それが始まりです。源、源泉です。全てはそこから始まります。神を愛すれば、神の誉れを受けようとするでしょう。人の誉れでなく、ただ神に顔を向けて神の誉れを求めるなら、信じ難いほどに赦して下さった所に目を向けますから、そこから赦しが始まる筈です。

  この後、今日は聖餐式の恵みに与ります。そのパンと杯を通して、イエスが私たちのために肉を裂き、血を流して私たちの負債を神の前に帳消しにして下さったことを味わいましょう。このパンと杯は、自分の6千億円の負債が帳消しにされるパンと杯であることを味わいましょう。

                        (完)

                                              2009年2月1日

                                         板橋大山教会   上垣 勝


  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/