家庭に不可欠なもの


  
  
  

                                              マタイ福音書18章21-35節


                                 (序)
  家庭は、社会という大きな共同体を成り立たせている核となる共同体です。その家庭に不可欠なものは何でしょう。お金でしょうか。住居でしょうか。健康でしょうか。仕事でしょうか。無論それらは大切ですし、安定した家庭生活を営むのに基本的に必要なものです。今日はその中で不可欠なものの一つを考えたいと思います。

                                 (1)
  マタイ福音書は、テーマ毎に分けて編集されていると言われます。例えば、イエスの誕生物語があり、山上の説教があって、それぞれ何章かにわたってまとまって述べられます。そういう目で18章全体を見ますと、ここには弟子たちの共同生活、その共同体を成り立たせるものについて、イエスが説かれた教えを集めたと考えることが出来ます。

  そう考えて読みますと、1節以下に、弟子たちは「天国で一番偉い者は誰か」と質問したところ、イエスは、そうではない、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と語られたとあります。その意味は、弟子たちのその問い、その発想は、共同生活を壊すものであるということです。

  また6節以下では、私を信じる「小さな者の一人を躓かせる」のは、共同生活を破壊するものだと言われます。その人は、「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」とさえ言われるのです。

  10節以下でも、「これらの小さい者の一人を軽んじないように気をつけなさい」と言われ、迷い出た一匹の羊を探す羊飼いの譬えを語られました。そして、「小さな者の一人でも滅びることは、天の父の御心ではない」と言われました。ここから、イエスは共同体の中の一人ひとりを、どう愛しておられるか、どこまで愛されるかが分かります。

  次の15節からは、弟子たちの間に、他の弟子に対して罪を犯す者がいる場合、どう忠告するのか、共同生活を壊す者に対する取り扱いが語られています。しかし反対に、18節以下では、弟子たちが2人であっても心を一つにして祈り、2、3人がイエスの名によって集まって祈るなら、「私もその中にいる」と言われて、このイエスが、またイエスと共なる祈りが弟子たちの共同体を成り立たせ、共同体に強い求心力を与えていくと語られるのです。

  そして今日の所になって、赦しの問題が語られます。赦しがなければ共同生活は危機に瀕します。教会も、家庭も共同体です。もしそこに赦しがなくなり、裁き合っているなら、やがてその群れは解体して行くでしょう。一般のどんな社会も例外はありません。

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  質問をしたのはペトロでした。彼は12弟子のリーダー格でありましたから、弟子の間にも誤解があったり、緊張関係が生まれたり、人を傷つける言葉や行為があるのを憂慮して、どうすればいいかを考えていたのでしょう。また、イエスに長く従う中で、お互いの罪のために生まれた行き違いや、行き詰まった対立を抜け出す唯一の道は、赦しであると教えられていたのでしょう。

  それで、自分に対して誰かが罪を犯し、悪いことをした場合、赦すべきなのは当然ですが、では、どれだけ赦すべきかと問うたのです。彼は、「7回までですか」と問いました。7回も赦せば十分だと思ったのでしょう。7回でも多いと思っていたかも知れません。確かに、自分が赦す立場になれば、普通なら7回も赦せば十分と思うでしょう。むしろ多すぎると思うでしょう。だって、「仏の顔も3度まで」と言うのではありませんか。

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  ところが、弟子たちはイエスの答えを耳にして大変驚いたのです。「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」と言われたからです。7の70倍は490回ですが、これはもう回数ではありません。言い換えれば無限にということであり、数限りなくと言うことです。

  7の70倍というのは、創世記4章に出てくる、カインの息子レメクの言葉を思い出させます。彼は妻に対して、「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が7倍なら、レメクのための復讐は77倍」と語ったと書かれています。

  この意味はよく分かりませんでしたが、今日のところとの関係で考えるなら少しはっきりしてきました。これは、自分を少しでも傷つける者は殺す。打撲の傷を負わせる者は必ず殺してやる。父が7倍の復讐をしたのなら、自分は77倍の復讐をすると、レメクの抱く恨みと復讐心の凄さを語った言葉でしょう。レメクの復讐は分別を越え、怒りが収まるまで、気が済むまで。理性もへったくれも何もない。思う存分報復するという恐ろしい宣言です。

  最近、犯罪被害者の家族が法廷に立って、思いを語ったり、求刑について意見を述べたりするようになったと言います。確かに被害者の家族の思いは測り知れないものがあるようです。ですから軽々しく言えません。だが、一歩間違えれば、レメクのようなことが起らぬとも限りません。やられたら、気の済むまでどこまでも仕返しをしたい気持に駆られる人々もいます。私たちも実際には実行しなくても、そういう感情に駆られることがありはしないでしょうか。辛い事ですが、やはり第3者の判断に委ねるべきではないでしょうか。

  そこからすれば、ペトロの言葉は非常に寛大であると言うことになります。

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  しかし、イエスは赦しに制限を加えようとするペトロの言葉に、「7の70倍」、無限に赦せと語り、23節以下の、「仲間を赦さない家来の譬え」を語られたのです。

  この譬えで、イエスは2つの事を強調しておられます。第1は、赦しは無制限であること。第2は、神によって赦されたことと、他の人を赦すことは一つであり、対をなし、切り離すことも分離することもできないと言うことです。

  この譬えは、天の国の譬えとなっていますが、ここに登場する王は、必ずしも神を指しているわけではありません。神が、怒りの余り、この王のように家来を牢獄に送り、お仕置きし、拷問にかけ、悔い改める者をいつまでも赦さない筈がないからです。

  イエスは、ご自分を十字架につける人々のために執り成されたのではないでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この祈りの中には、彼らへの怒りでなく、赦しへの執り成し、罰さないで下さいという祈り、神の憐れみを求める願いだけがあります。

  譬えの聞き方で大事なのは、細部に目を留めるのでなく、その譬えが語ろうとする思いがけない点、その中心点に注意を払わなければなりません。すると、家来が赦されたのは、「1万タラントンの借金であった」というところです。

  これは日本円に直すと、6千億円からほぼ1兆円です。6千億でなく6千万円と言われると、私にはほぼその大きさが分かります。なぜ分かるかと言うと、この教会を壊して、ちょっとお洒落な教会を新築しようとすると5千万円から7千万円かかると言うことが、この間見積りを頂いて分かったからです。でも、6千億円とか1兆円と言われると余りに膨大でかえって分かりません。

  1万タラントンというのはどれ程でしょう。イメージし易いように言いますと、15万人の労働者の1年分の給料に当たります。家族が4人だとすると、60万人の家庭を1年間養えます。恐ろしい金額です。5千万円の教会を、1万2千ヵ所以上も東京に建てる事ができます。とんでもない負債が赦されたのです。

  しかも家来は嘆願したから、それだけで王は大変憐れに思って帳消しにして赦したとあります。ここの、憐れに思ってとは、腸がねじれ、はらわたが痛くなるような憐れみを抱いてという意味です。王の思い遣りの大きさ、その深さが、この言葉から偲ばれます。それに、家来の嘆願を信じ、疑問を持たず、取り調べもせず、赦してやっているのです。

  これは実際のことと考えると、到底考え難いことです。譬えであるからですが、でも余りに大き過ぎる誇張です。こんな理性的でない王はいる筈がありませんし、これ程お人好しの王はありません。

  ということは、神の赦しは全く人間の理性を越えている。信じ難いものであるだけでなく、人の常識を逸脱し、計算を越えたものだと言うことです。

  ところが、王からこれ程の負債を赦された同じ家来が、僅か100デナリの借金、給料3か月分の借金のある仲間が、返済すると言っているのに、怒って牢に入れたというのは、同様に驚くべきことです。何とケチな、了見の狭い奴でしょうか。

            (つづく)

                                         2009年2月1日

                                         板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ホントネー修道院には聖ベルナルドスの事跡が展示されています。)