少年イエス (下)


  
  
  
  
                                                                                          ルカ2章41-52節

  
   
                                 (4)
  それと共に、両親は貧しい人たちですが、苦労しつつも精一杯生きている姿に接したでしょう。両親に仕える中で、心の貧しい人たち、悲しむ人たち、また心の清い人たち、柔和な人たちの姿をご覧になったでしょう。

  両親の弱さと寂しさと共に、その心の清さも、人間ですから清いと言っても100%でありませんが、その清さを知られたでしょう。

  戦前のことです。ある方が少年の頃、お父さんが、アメリカの日本人教会で牧師をしていました。ところがお父さんは、教会から排斥を受けて、そこを出て次の教会に行かねばなりませんでした。排斥されたわけで、家族は皆黙りこくって、舗装のない淋しい田舎道を、ガタンゴトンと自動車に引越し荷物を積んで次の教会に向かっていました。すると目の前を羊の群れが通過しました。自動車は止まって、通過するまで待ちました。

  すると羊たちを追って、一番後ろから羊飼いが道路を横切りました。その姿は汚いなりをしていて、服はどこか破れたり、泥がついたり、髭(ひげ)も剃(そ)っていません。その時、少年の彼は、「そうだ。これが本当の羊飼いの姿だ」と思ったそうです。

  絵で見る羊飼いは真っ白なきれいな服を着ているが、本当の羊飼いは薄汚れているんだ。父は今、本当に薄汚れてしまっているが、薄汚れた、破れた父の姿こそ本当の羊飼いの姿なんだと。それまで父を強く責めて赦せないでいたが、この時、責める思いが消えて、父を赦そうという思いが忽然と芽生えたというのです。

  イエスは、父の薄汚れて苦労する姿、母の愚かにそれを助ける姿を見ながら、「あなたがたはこの世では悩みがある」ことを、また、心の貧しい人たちの幸いを、悲しむ人たちの幸いを、心の清い人たちの幸いを見られたでしょう。

  イエスが、両親の弱さを受け入れ、それを自分に引き受け、それを負っていかれたと、先ほど言いました。

  私たちも、自分のために我慢してくれている人があるかも知れません。いや、自分の方こそ我慢していると言う人もおありでしょうか。確かにそういうこともあるでしょう。だが、やはり傍らで我慢している人もあるのと違いますか。そういう人への率直な感謝を持ちたいですし、そんな人が与えられているなら素直に喜びたいと思います。幼子のような単純素朴さに帰っていきましょう。

  そのことが仕えるということでもあるでしょう。相手を素直に敬い、正しく評価し、扱うこと。それは深い意味で人に仕えることだからです。

  イエスは、両親に仕えることを、父なる神からの「召し」と考えられたのではないでしょうか。本来の天の父から、そうするように呼ばれていると思われたのでしょう。今、召しと言いましたが、昔は赤紙が来れば、どんな理由があっても、どんなにイヤでも応召して行かねばなりませんでした。絶対の命令です。神の召しは、応召ではありませんが、イエスは神の召しを感じて、心からの喜びをもって、父なる神様のみ心に適うこと、栄光を表わすことを行なおうとされたのです。

  ペテロの第1の手紙は、「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて、苦痛を耐えるなら、それはみ心にかなうことなのです」とあります。イエスは、両親から不当な苦しみを受けるということはなかったでしょうが、神でありながら人に仕えるということに必然的に伴う苦痛や疎ましさに耐え、神がお望みだと考えて、そうなさったという事でしょう。

  ペトロの手紙はまた、「キリストはあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと模範を残された」とも書いています。イエスを見るとき、人に仕えるということがどんなことか分かるために、具体的に両親に仕えて私たちに模範を残して下さったということです。

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  最後に、イエスは両親に仕えて「お暮らしになった」と書かれています。

  暮らすということは、そこに足場を置き、毎日その生き方をしながらそこに留まることです。これは単に思い巡らしたり、黙想したり、考えたりすることではありません。

  仕えて暮らすのです。信仰の生活化です。イエスはこのことにおいても、私たちに模範を残されたのでではないでしょうか。

  郊外に行きますと、今、麦が育ちつつあります。しかし、この一番寒い時に、麦には酷でしょうが、何度か麦踏をします。小学生も麦踏をさせられますが、体重が軽いと弟や妹を背負って麦踏させられるそうです。麦は踏まれて腰が折れて、それでも立ち上がり、また踏まれて立ち上がり、そのようにして育ちます。

  砕かれて立ち上がる。砕かれてまた立ち上がる。その時、人としての味が出ます。それが神に生かされた人間のあり方ではないでしょうか。

                                                           (完)

                         2009年1月18日

                                      板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ホントネー修道院のイエスレリーフ。)