一切をお裁き下さい (下)


  

  
                                           詩編26篇1-12節
  
  
                                 (2)
  私たちは先週、クリスマス礼拝を守り、イヴの礼拝も多くの人たちと守って、イエスの誕生を喜び祝いました。祝会があのような心に残る会になるとは思いませんでしたし、イヴ礼拝があれほどいい集いになるとも思いませんでした。全ては神がなされたことだと思います。

  この様に、イエスの誕生を祝ったわけですが、ヘブライ人への手紙13章を見ますと、クリスマスで祝った、この「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」とあります。2000年前に来られたこのお方は、今日も変わらず、明日も将来も永遠に変わることがないお方であるというのです。

  何故そんなことが言えるのでしょうか。

  それは、イエスにおいて起った事は、最後決定的に起った出来事であったからです。最後決定的な出来事というのが真に最後決定的なものであるなら、いつまでも、何にでも影響を与える出来事ですから、これは過去になりません。もし皆さんが、交通事故に遭って両足切断したとします。それは、ある意味で最後決定的な出来事でしょう。無論それでその人が不幸になるとは限りませんが、でもその人のその後の生涯にわたる決定的な出来事になるでしょう。この様に、最後決定的な出来事というのは、いつまでも、何事にも影響を与えます。然るに、イエスの出来事は真の意味で最後決定的ですから、一時代でなく、いつまでも、永遠に影響を与えます。あらゆる時代に力をもって行きます。

  ですから、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と語られるのです。

  しかも、その様な方としてイエス・キリストは、私たちが毎月唱える使徒信条で、「かしこより来たりて、…裁き給わん」と唱えているように、次にまた来られて、今度は一切を裁くためにおいで下さるのです。そして、その裁きは神の最後決定的な裁きです。人も社会も、いかなる法廷も、その裁きに服さざるを得ない裁きです。

  先ほど交読した詩編96篇13節に、「主は来られる。地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる」とありました。

  「一切をお裁き下さい」というのは、そういう裁きのことを指しています。

                                 (3)
  しかし、私たちが、「一切をお裁き下さい」と願う審判者は、牙(きば)をむき出し、鋼鉄の重い棒を持った、閻魔大王のような恐ろしい形相をした審判者ではありません。閻魔さんは真っ赤な顔をしているのは、怒り心頭に達しているからです。

  だが、キリストの裁きは、恵みの裁きです。恵み溢れる正義の裁きです。「天網恢々疎にして漏らさず」というような何者をも漏らさない裁きですが、愛と真実による裁きです。ですから、そこには希望が溢れます。地上では家族にも、友にも、誰にも本当のことを分ってもらえず、涙を拭われることなく過している人もあります。だが、必ず熱い涙を流して溜飲(りゅういん)を降ろせるような恵みに満ちた裁きです。また、たとえ鉄槌が頭上に下ったかのように見えても、必ずその鉄槌ゆえに希望が出てきます。慰めがある鉄槌です。

  希望を与えないような裁きはキリストの裁きではありません。それは律法による裁きであり、この世の断罪であり、ムチをちらつかせた制裁です。そして、そのような冷たい裁きが何と世に満ち溢れ、多くの家庭にも満ちていることでしょう。

  イエス・キリストによる裁きは、信仰者だけに関わったり、教会にだけ関わったりするものではありません。この方の裁きは最後決定的な裁きですから、あらゆる社会、あらゆる問題、あらゆる宗教、あらゆる人々もその希望に溢れた裁きの下に、最後的に立つのです。この世界は、いついかなる時も神のみ手の中にあり、その手から離れたり、その外に出ることはないからです。

  ですから、私たちは安心してこの世界の中を歩めばいいのです。キリスト教の狭い世界に閉じこもってはなりません。キリスト教を狭くしてはなりません。キリストは、神は、キリスト教よりもっと大きい方です。広い世界の中で、神の恵み溢れる最後決定的なお裁きに委ねて、生き生きと生きればいいのです。

                                 (4)
  使徒信条が、「来て、裁き給わん」と語っていることを、しっかり味わいましょう。

  私たちが、このお方の所に向かって、苦労し、骨折って辿って行かねばならないのではありません。「来たり給わん」というのです。私たちが行ったり、来たり、困難な危険な道を攀(よじ)じ登って行かねばならないのでなく、向うから恵みに満ちて「来られる」のです。厳しい顔でなく、顔を輝かしておいでになるのです。

  そして、一切について真の裁きをして下さる。その裁き以上に喜びの裁きはありません。慰めを与えられ、平和を授けられる裁きはありません。

  私たちは今、2008年を閉じようとしています。私たちは一切をお裁き下さるお方に委ねて、この年を終えましょう。

  すでに、キリストの誕生を先週お迎えしました。世界には新しい曙の光が射し込んでいます。私たちは、キリストの光を、開かれた眼をもって見ることを許された者たちです。と言っても、私たちは世の人より少しも優(まさ)っても、優(すぐ)れてもいません。

  ただ、先にこの恵みを知らされた者として、私たちはこの恵みの光を、来年はぜひとも輝かしましょう。輝かすことを喜びとしましょう。

                            (完)

 
                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真;2008年クリスマス。)