獄中からの手紙


   
  
  
                                          フィリピ人への手紙1章1-2節


                                 (序)
  世界恐慌の前触れのような暗雲が垂れ込めて、地の上を覆っています。誰もこの恐慌から逃げられないような様子を呈しています。新聞やテレビはセンセーショナルなものが好きですから、そういう所に報道が集中しています。

  多くの人が急に職を失い、住む場所を失くし、年末から年始にかけて越冬のテントが張られて、炊き出しなどが行なわれていることが報じられています。

  大不況で苦しむ社会にあって、今日から月に1度は、獄中からの手紙に耳を傾けたいと思います。それで、正月早々、道行く人たちが振り向きそうな「獄中からの手紙」という題になりました。と言っても、今獄中にある人の手紙から聞くのではありません。今日のフィリピの手紙は、パウロがローマの獄中から書いた手紙だからです。

  暗雲が垂れ込めて、誰もこれがいつまで続くのか分かりません。この手紙の説教が1年後か1年半後に終る頃に、不景気が終っているかどうか分かりませんが、とりあえず、毎月1回か2回はこの手紙に戻って来たいと思います。

  このような時代こそ、1つの確かなものに固着して、そこに碇を降ろすことが大事だからです。恐れたり、慌てふためいたり、流されないために重要だからです。

  私たちの教会の建物は、今、耐震補強が必要になっています。というのはピサの斜塔のように柱が少し傾いているのです。それで、改築かリフォームが必要だろうというので、業者に見積もりを出して頂こうとしています。

  現在までに分かったことは、新築なら、必ず地盤の補強が必要だというのです。本来、教会の地盤自身はいいのですが、お隣のマンションとの間で2m以上の崖になっていますので、何かがあった時に崩れないために、安全のため、かなりの深さの所にある固い地層まで杭を打ち込んで地盤を補強しないと、都の土木事務所は建築許可を出さないのです。

  建物もしっかりした基礎が必要ですが、こういう時代は、確かなものにしっかり基礎を降ろさなければなりません。でないと、何かがあるとドドッと崩れて、総崩れになってしまいします。そのためにも、フィリピの手紙を続けて学びたいと思います。

                                 (1)
  「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれている全ての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とありました。

  この手紙が獄中書簡であるという事は、7節と13節で、パウロが「監禁されている」と書かれていますし、17節では「獄中」にいると書かれている事から分かります。また2章では、「私の血が注がれるとしても」と、殉教の死が暗示されています。

  ところが、私たちがこの手紙を通読して、彼はいささかも獄中の不便さや苦痛、屈辱を訴えていないことを知ります。

  私は至って寒がりです。ローマの冬は、東京とほぼ同じ気温ですが、厚い石造りの獄舎の夜は、寒がりや神経痛の人はつらいだろうと思います。暖房なんてまるっきりありません。パウロは、芭蕉の何倍もの距離を旅した人です。芭蕉は、足の「三里に」お灸をすえて旅したようですが、病弱な所もあった様で、「旅に病んで、夢は枯れ野を駆け巡る」と歌っています。

  だが、パウロはサタンの使いと呼んだ猛烈な頭痛、眼病そして癲癇の持病を持っていたようですが、凍てるような極寒の中で、少しもそれへの苦痛や恐れを語っていません。

                                 (2)
  むしろこの手紙にあるのは、喜びです。彼は、「わたしの血が注がれることがあっても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」と語り、フィリピの人たちにも、「喜びなさい。繰り返して言うが喜びなさい」と勧めています。そのため、この獄中の手紙は「喜びの書簡」とさえ言われて来ました。

  彼の喜びはどこから出て来るのでしょうか。それは、死に打ち勝って勝利し、甦られたキリストからです。これが喜びの源、希望の源泉ですが、彼は獄中でそれに思いを馳せて、そこから喜びを汲み出して、実際に喜んでいるのです。少しの弱音もありません。

  彼は、どれほど深くこの源に碇を降ろしていたか。それは、今日の「キリスト・イエスの僕であるこのパウロ」という言葉から明らかです。彼は、「キリスト・イエスの僕」として自分を置き続け、そこから片時も離れようとしません。それほどナザレのイエス、十字架で死んで下さったイエス、そして死人の中から甦った希望のイエスに、人生の頑丈な地層まで杭を打ちつけるのです。

  ボンヘッファーという人のことをお話したことがありますが、彼は、テーゲルの収容所とかブッヘンヴァルトの強制収容所など数箇所の収容所に廻され、最後にフロッセンブルク強制収容所の親衛隊法廷で、ヒトラー暗殺計画の罪で死刑の宣告を受けて獄中死しました。

  彼も、獄中から多くの手紙を書きました。それはボンヘッファーの「獄中書簡」として日本語にも訳されています。その中で、「ソクラテスは死ぬる事を克服し、キリストは最後の敵である死を克服した」と書いて、「死ぬる事に打ち勝つことは人間の能力の範囲内のことであり、死の克服は復活を意味する」と記しています。

  要するに、キリストは死自体を解決した、死に勝利したと言っている訳です。平安な死に方をどうすればできるか、謂わば、死ぬる技を書いた本は沢山あります。しかし大事なのは、死自体を克服することです。それが根本です。それは人間にはできません。だが、キリストは死を滅ぼされました。そしてこの死の克服は、結局は「復活を意味する」と彼は書くわけです。

  パウロはそのことを知っていた。だから、獄中でも喜び得たのです。血を流すという処刑の近さを感じつつも喜びえたのです。だから、獄中から外の世界に発信して、外の人々を力強く励ますことができたのです。

                                 (3)
  彼が、1節で、「キリスト・イエスの僕」と自分を紹介しているのは、意味がないのではありません。彼はこの言葉で、この世の力を越えた方に自分は仕えていること。いかなる世の権力にも、死の力にも繋がれていないことを表明しているのです。信仰によって与えられる力は、ローマ軍をも死の力をも圧倒的に越えている。自分はその方の僕であると、神を仰ぎ、顔を輝かしながら誇らかに語っているのです。

  こういうパウロの姿を、想像することがお出来になるでしょうか。「キリスト・イエスの僕」と彼が語る時、そういう誇らしい、顔を輝かした姿があります。

  彼は逆境を無視しているのではありません。逆境を見据えながらも、それを克服しているのです。逆境を無視することは、「小さな自己欺瞞だと僕は思う」と、先ほどのボンヘッファーが言っていますが、パウロは少しも欺瞞的な所がありません。非常に健全です。それは、イエスから来る所の健全さをもって生きているからでしょう。

                                 (4)
  今日の最後で、パウロはフィリピの信徒たちに、「キリストからの恵みと平和」があるようにと祈っています。

  復活のキリストは、弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と語って、彼らにキリストの平和を与え、宣教に遣わされたとヨハネ福音書に書かれています。

  心の内側に平和がなくして、平和を宣べ伝えることも、平和を創り出すこともできません。ファリサイ人のように説くには説くが、自分は平和を生きていないってことになりかねません。平和を押し付けても、平和は生まれません。私たちが、キリストの平和に生かされていなければ、どうして平和を創り出せるでしょうか。

  キリスト教の古代教父の一人であるアンブロシウスは、「あなた自身の中で平和を始めなさい。自分が平和である時、他者に平和を持ち運ぶことができる」と言いました。本当にそうだと思います。

  だから、パウロはフィリピの人たちに、「キリストからの恵みと平和」があるようにと、獄中から祈るのです。フィリピの町は決して平和ではありません。しかし、このキリストの平和がフィリピの信仰者の心を支配するなら、暗雲の漂う古代社会においても、必ず光を灯すことができるからです。

  そして私たちも、この年の初めから暗雲が漂う時代の中にあって、このキリストの平和を与えられて、キリストの光を掲げて生きようではありませんか。

                                        (完)

            2009年1月4日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、千年の風化に耐えるホントネー修道院。)