飼い葉桶のキリスト (下)


  
  
                                                                                      ルカによる福音書2章1-7節
 
  
                                 (3)
  イエスは、ユダヤベツレヘムで生まれました。ガリラヤのナザレからベツレヘムまで百数十キロあります。マリアは臨月を迎えた身重の体ですが、有無を言わせぬ勅令に従って彼らは旅しました。

  ベツレヘムに留まる間に産気づき、馬小屋に入ってイエスを産み、飼い葉桶に寝かせました。臭く、不衛生な所です。人でなく、家畜と一緒です。柔らかな産着はあったでしょうか。少なくとも産後何週間かは動けず、獣たちと一緒の生活です。しかも初産です。どんなに不安に襲われたことでしょう。ベツレヘムに宿屋はありましたが、金持ちは泊まれても貧しい彼らには泊まる余地はありませんでした。だが、彼女は小さな信仰ながら、「お言葉通りこの身になりますように」と神に応じていました。ですから、何があろうと神は必ず救い出してくださると信じて、一切を委ねることができたのでしょう。

  アフリカのナイロビから届いたテゼの報告を読みました。アフリカ大陸は昔は暗黒大陸と呼ばれましたが、今も人種と部族の坩堝(るつぼ)で、人々は色んな分裂に曝されているようです。しかし、その中で紛争解決と和解を創り出そうとして働く多くのキリスト者たちがいます。彼らは、「洗礼の絆は、分裂の力より強い」という確信に生きているそうです。

  アフリカの人たちは、多くの試練があっても人としての尊厳を捨てないそうです。それは、極めて貧しい人たちの中にも、はっきり在るそうです。また生きることの困難が多くあっても、喜びをなくさないし、危険の中にもダンスすることを忘れないのだそうです。そして、男性より、女性が先頭に立って工夫しながら、忍耐しながら、多くの仕事をしているのだそうです。

  上州の女性たちだけではないんですね。

 アフリカの人たちは、まるでマリアのように、一切を神に委ねて、「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」というイエスの言葉に励まされて、今日、その一日を、神に委ねて、顔を輝かして生きているに違いありません。

  イザヤ書にあるような、「主に望みを置く人は新たなる力を得、…走っても弱ることなく、歩いても疲れない」というような信仰を持っているのでしょう。

  確かにこういう信仰に生きますと、その信仰がほんの僅かなものであっても、その生き方は的を得ていますから、弱ることなく、疲れないというか、繰返し新たな力を与えられるでしょう。人生が的を得ること。それが肝心です。最も肝心なことがあると、弱さの中に在っても、どんでん返しが起って、その弱さが返って用いられることさえ起るのです。

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  さて2人は、幼子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。「飼い葉桶が王の王、主の主と呼ばれるキリストの最初の玉座になったのです。」貧しく、低い、暗い所に世を明るく照らす方、「世の光」なる方がお生まれになったのです。

  人生に敗れ、ボロボロになって下を向いて歩いている人たち。実際に下を向かなくても、未曾有の不況の中、リストラされそうだったり、既にされたり、子どもがリストラにあったり、心が下向き加減になり、苦労、悩み、あせり、口惜しさ、涙、孤独、暗闇を身にまとって生きている人たちも多くおられるご時世です。しかし、そこに救い主イエス・キリストが来ておられます。キリストが飼い葉桶に来られたという事は、その人の所にキリストは来られたことです。

  ですから、ヤケになる必要はないし、投げ出す必要もないのです。いや、そこでも、しっかり生きることによって暗闇にローソクを灯すことになるかも知れません。アフリカの人たちは、尊厳を失わず、ダンスを忘れないのです。

  ラトヴィアという国が北欧にあります。長くソ連支配下にありましたが、20年前にソ連が崩壊して独立した小さな国です。ソ連支配下にあった頃、大勢の牧師や信徒が単に聖書を語っただけで殺され、殉教しました。ある時、ヴィクトルという牧師が聖書を持っているという理由で捕えられました。警察は彼の前でその聖書を地面に投げて、それを踏めと命じたのです。踏み絵です。ところが、その牧師は跪(ひざまず)くと、頭を地面に近づけて恭(うやうや)しく聖書にキスをしたのです。(ナイロビ大会でのブラザー・アロイスの黙想より。)

  暗闇が支配した時代です。だが、彼は暗闇を呪わず、暗闇の中でローソクを灯しました。頭を地面に近づけ、聖書にキスすることによって、神を賛美して多くの人を励ましたのです。

  イエスの誕生、クリスマスは美しいメルヘンやイリュージョンではありません。お伽噺(とぎばなし)でもありません。れっきとした史的事実です。

そしてイエスが来られたのは、私たちの心の内に現実に生きて下さるためです。もし皆さんの心の内にキリストが迎えられるなら、心の暗闇に明るいローソクが灯され、「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」ということが、今日からでも起るでしょう。

            (完)
                             2008年12月21日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
 
  (今日の写真;クリスマスの祝会に持ち寄ったご馳走がいっぱい並びました。)