飼い葉桶のキリスト (上)


   
   
  
                                          ルカによる福音書2章1-7節

                                 (序)
  アメリカでは今、ルーズベルト大統領が新しく注目されています。世界的な未曾有の不況が進む中で、彼が行なった大胆なニューディール政策に再び学ぶためです。

  その墓碑銘には、「彼は暗闇を呪うことよりも、ろうそくを灯そうとした。そして彼の光と輝きが世界を明るくした」とあります。

  私たちは人生をどう生きるのでしょうか。暗闇を呪うのでしょうか。それとも暗闇に、ろうそくを灯そうとするのでしょうか。

  私は毎朝、ほぼ同時刻に散歩に出かけます。すると、どこの誰か分かりませんが毎朝ほぼ同じ人と会います。遅刻しそうなのでしょう。いつも走っている人がいますね。走っている人は、ほぼ毎日走っていますね。私も時間がなくてよく走っていますが、一生かも知れませんね。かと思うと、毎朝、ゆっくり、のんびり歩いている人もあります。朝からキョロキョロしながら、歩いている人もあります。中に、いつもうつむいて暗い顔で歩いて来る若い女の人もあります。会うたびに、どうしてだろうと心配します。

  人生には色んな事が起りますが、それをどう担い、どう生きるのでしょうか。それに潰されて生きるのでしょうか。呪って生きるのでしょうか。それとも、ルーズベルトのように、「暗闇に、ろうそくを灯そうと」するのでしょうか。

  「ろうそくを灯そうとした」のですから、人生を自分のためにだけ生きなかったという事でしょう。人のために生きたということです。このことは、「世の光」として来られたイエスの誕生を祝うクリスマスの時期にとても考えさせられる事です。

                                 (1)
  今日はクリスマス礼拝です。イエスの誕生の所からご一緒に聞きましょう。先ほどのルカ福音書2章1節に、「その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行なわれた最初の住民登録である」とありました。

  ルカは医者でした。今日は医者の方は来ておられませんが、医者というのは客観性を尊ぶ、教養豊かな人であると思います。ルカ福音書を見ると、その客観性、学識の高さ、教養が文章に現われています。「医者は社会的常識が欠如している」と言った人があるそうですが、少なくてもルカは違います。大抵の医者もそうでしょう。

  皇帝アウグストゥスとあるのは、ローマの初代皇帝カイザル、シーザーのことです。彼がローマ帝国の全住民に出した住民登録の勅令。この勅令は、キリニウスがシリアの総督であった時に行なわれた最初の住民登録である。

  「そのころ」イエスが生まれた。

  彼はそう今日の箇所で書くことによって、イエス・キリストは空想上の人物ではない。人間の願望ででっち上げられた、現代的に言えばバーチャルな存在ではない。クリスマスの出来事はイリュージョンではない、ということを書こうとしているのでしょう。

  アウグストゥスはどれ程強大な権力を持っていたか。私は、ドイツやスイスの国境に近いフランスのオータンという町に行った時にそれを知りました。その田舎町には、アウグストゥスがイエス時代に築いた町を取り囲む非常に分厚い壁が今も残っていて、ローマ帝国がどれ程の権力を持っていたかを考えさせられました。権力というのは、こういう力で領土を拡張します。

  先日、教会の地盤調査にある業者が来ました。地盤の強度を測ったりしていましたが、お昼頃玄関に出ると、道路工事の現場によくあるような小さな黒板が立てかけられていて、会社名と調査目的、日付などが書かれていました。よく見ると、「上垣勝邸」となっていまして…。ひっどいですね。いつの間にか、上垣牧師が教会を乗っ取ったような表示になっていて驚きました。皆さん、気をつけて下さい。牧師でも権力を持たすとアウグストゥスみたいに領土を広げるかも知れませんよ。

  「アウグストゥス」というのは、尊厳なる者の意味ですが、彼が皆に呼ばせた名です。これは、神を指しています。彼は自分を神と呼ばせ、礼拝させました。彼は「パックス・ロマーナ、ローマの平和」を築きました。だがその平和は武力によるものです。そのシンボルは鷲と剣を持ったファッシースという棍棒の束です。その棍棒をかざして軍隊に命令し、刃向かう者を叩きのめし、殺し、領土を奪い、「ローマの平和」を打ち立てて進軍するのです。

  キリストは「平和の主」と言われますが、棍棒や剣で平和を作られません。真の平和は棍棒や権力では生まれません。国だけではなく、家庭も社会もそうです。力で家庭の平和を築こうなんてしますと、大変な家庭になります。「ローマの平和」は、人々を力で脅すことによって維持した平和でした。しかし、キリストは愛によって平和を創り出されます。「ローマの平和」の時代に、それとは全く価値観の違う「平和の主」がお生まれになりました。そして、ローマはやがて滅びますが、キリストは全世界に宣べ伝えられ、今日もその枝を世界に伸ばしつつあります。。

                                 (2)
  さて、3節以下に、「人々は皆、登録するために各々自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデ家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである」とありました。

  先週、テゼにある受胎告知のステンドグラスの写真を窓に飾って、その意味するところをお話ししました。マリアは、ガブリエルのみ告げを聞いて、「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と答えました。その時彼女は、ヨセフとの結婚がダメになるかも知れない、それでも神の言葉に従おうと決心したのです。ところが、今日の所を見ると、ヨセフは彼女を離縁せず、住民登録のためにいいなずけの彼女をベツレヘムに連れて行ったと書かれています。この際、結婚の届けまた住民登録を本籍がある町で出そうとしたのです。

  これは驚くべきことです。ヨセフがマリアを妻に迎えたということは、ヨセフは、マリアの言葉を信頼したという事でしょう。これはただ事ならぬ信頼です。マタイ福音書では、神の使いが夢でヨセフに現われて、「恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアは聖霊によって身ごもったのである」と言ったとありますが、誰がいったい、聖霊によって身ごもるなどと信じられるでしょうか。私なら決して、決して信用しないでしょう。

  私と関係ないところで妻が身ごもったということは、不倫を働いたということでしょう。だったら、決して、決して、決して、十度でも決してというでしょう。だが、ヨセフはマリアを信用し、神を信じ、すっかり受け入れたのです。

  疑えば切りがありません。彼はマリアを愛していたし、思いっきりのいい、雄々しい男だったのでしょう。決断してすっかり受け入れると、不条理なことも、その決断の故に喜びを味わうのではないでしょうか。知人の夫が、看護師と浮気して数年家に戻りませんでしたが、暫く前に帰って来たそうです。とんでもない男ですが、奥さんはよくも夫を受け入れたなあと思います。ヨセフの場合はちょっと事情は違います。彼の場合は、何と雄々しい男かと思います。

  この家庭の絆は信頼です。聖書に、「愛は大水も消すことはできない。洪水もそれを押し流すことはできない」とありますが、愛と信頼が、彼らの乗り越え難い障害を乗り越えて行ったに違いありません。

       (つづく)

                           2008年12月21日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、アドベント第4週、クリスマス礼拝の灯火。)