あなたは誰を待っていますか (下)


         (今日の写真は、テゼのブラザー・エリックの「受胎告知」。テゼのホームページから。)  
  
  
   
                                          
                                          ルカ福音書2章36-38節

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  さてアンナは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」のです。

  聖書を見ると、イスラエルの民は長い長い何千年という歴史を旅して来ました。そして、キリストが来られるのを、神はゆっくりと準備しておられました。アドベントは、キリスト誕生に至るこの長い何千年の歴史、このゆったりした大河の流れのような歴史のことも待望の時として大切に覚えます。

  その旧約時代の長い歴史を考えると、イスラエルの歴史の初めは、結婚に譬(たと)えられる初々しい初めの愛があったと語られています。しかし、次第に不信が出てきます。悪が現われ、不義が充ち、罪が支配します。神への反逆や裏切りさえ現れます。

  それでも神は愛することをやめません。

  イザヤ書41章には、「私はあなたを選び、決して見捨てない」という言葉が何度も出てきます。詩編27篇は、「父母は私を見捨てようとも、主は必ず、私を引き寄せて下さいます」と語ります。

  神は選んだ者を決して捨てず、愛することを断じてやめません。私は、旧約聖書は人間の罪の歴史を書いているとしばしば申してきましたが、罪だけを書いているのではありません。神の誠実、契約をどこまでも守る誠実な愛。ヘセドと言いますが、神の愛の歴史を書きとめているのです。人間に対する神の愛ヘセドの貫徹。それが聖書で証しされていることです。

  信仰はむろん知識でもあります。しかし知識からだけで神を理解していますと、本当の信仰に至りません。信仰は知識というより知恵なのです。なぜ知恵かというと、信仰は実際的経験です。信仰は神との実際的出会いだからです。神との生きた出会いを求めることなしには、信仰は生きて働きません。祈りが大事なのは、そこです。知識だと、自分を与えるものになりません。大学教授だと知識を伝えるだけで、それを生きなくても何も言われません。しかし信仰は、語ったことを生きるのです。知識だけだと、人から受け、要求するばかりの信仰者になりがちです。イエスが、「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われたのは、信仰は自分の十字架を負って実際に生きる生活であるからでしょう。

  教会で皆と一緒にお掃除をしたり、食事をしたり、バザーをしたり致します。そういうことはそれ自体の意味もありますが、その真の願いは信仰の成長のためです。信徒の交わりの中で信仰を学ぶのです。ですから、そういう事には一切関わらないという方は、知識は学べても信仰は学び難(にく)いでしょう。私たち信徒も牧師も、謙虚になると、教会で他の人の信仰から学ぶことが非常に多くあります。

  アンナは84歳ですが、82歳のある知人が最近こんなことをおっしゃいました。「自分はキリスト教の学校にも行き、若い頃から、信仰について色々学ばせて頂いた。学校でも教会でも色々教えられたのに、まだ信仰の基本が分かっていない。82歳になっても、まだ色々の誘惑に陥ってしまう。それが私です。また自分の醜さがある。過ちもある。自分の責任なのに、責任転嫁しがちな自分がいます。怠慢もある。にも拘らず、主は勝利へと持ち運んで下さっている。神が勝利して下さっている。何とありがたいことでしょう。私が強いのでなく、神が強いのである。自分は高齢だが、今からは、這ってでもキリストに従って行きたい。」

  「這ってでもキリストに従って行きたい。」ずっしりと重みある言葉です。これが信仰だと思います。この方は、今も魂の渇きを感じおられます。しかし、その渇きが一層神を、キリストを求める力になっておられます。

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  アドベントは、現実に対して目を閉ざす薄っぺらな希望ではありません。神に碇(いかり)を降ろした、強靭な希望です。たとえ生涯負うべき十字架を持っていても、甘えず、責任転嫁せずに生きることを可能にする力を与えるものです。

  全ての人の中に、この絶対的なものへの魂の渇き、絶対的な愛への渇きがあるのではないでしょうか。その渇きは、どんな人間の親密さによっても完全には充たせないものです。

  しかし、この渇き、空虚、虚無感は異常なことではなく人間の一部分です。神が私たちに与えられた賜物の一つです。なぜかと言えば、私たちが神に向けて造られているからです。

  しかし、この空虚や虚無感が、神によって満たされると信じることができるなら、その時から喜びのかすかな芽生えがこころに生まれるでしょう。

  アウグスチヌスは、「キリスト者の生涯は、聖なる願望である」と語りました。また、神は聖なる渇望、聖なる期待、聖なる待望をお与えになったという意味のことを語ります。「神を見たいと願うなら、あなたはもう信仰を持っている」とも申しました。

  「見たい」ということでなくても、「神を信じたい」、「愛を受け入れたい」と思うなら、すでに信仰は始まっています。その人の魂の深い所において、信仰の炎は燃えています。微かかも知れませんが、もう燃えているのは確かです。神がその人の中におられるからです。

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  先週は、マリアへの受胎告知から福音を聞きました。今日は窓に、テゼのブラザー・エリックが作った「受胎告知」のステンドグラスの写真を貼りました。ここには、胸に手を置いて、み使いの告知を静かに思い巡らすマリアが描かれています。彼女は今、神に心を開いて沈黙しています。その姿を、天使はにこやかに見つめ、み告げを告げています。遠くからは見えませんが、Aさんの所からは爽やかに笑みをたたえた天使が見えるでしょう。

  彼女は、「お言葉通りこの身になりますように」と語りました。彼女は、み言葉がその身になることを待つ人です。彼女はその身でアドベントを生きた人です。「石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる神」、を待った人です。

  徴税人の頭ザアカイも待つ人でした。彼はエリコの町の嫌われ者、悪人、一人の友もいない者です。だが、その魂に神への待望があることをイエスは見抜いておられました。

  神は、どんなに小さい神への願望も待望もあこがれも見逃されません。アドベントのこの時、私たちも魂の渇きを神に向けて申し上げればいいのです。神はその渇きを満たすために、この世にみ子を贈られたのです。
 
                              (完)

               2008年12月14日
  
                                    板橋大山教会   上垣 勝

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