マリアという若い女性 (下)


  
  
                                           
                                         ルカによる福音書1章26-38節
    
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  ところが彼女は、本当に不思議ですが、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と語ったのです。

  神様がお与えになる信仰の贈り物は、人間がいくら努力しても、逆立ちしても、願っても、どのように努めても与えられるとは限りません。人間に基くものではありません。しかし、私たちには何の可能性もないのに、神の大いなる力が及んで、いわく言い難い導きをもって神様を信じますという思いが起るのです。不可能と思っていたことが、可能にされるのです。それが聖霊の働きです。

  それは、「神の恵みを頂いた」としか言えません。いわく言い難い力が働いて、「お言葉通り、この身になりますように」と導かれるのです。信仰はただ神の選びです。「どうして、こんなことが起ったのだろう」と言うような事が起るのです。

  マリアはまったく普通の女です。聖女でなく平凡な女性です。特別優秀な所があるわけでなく、私たちと少しも変わりません。しかし、主はそういう普通の人をお用いになります。それは私たちにも起ります。

  「この石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる」というのは、そういうことです。神は、石ころのようなマリア、そして私たちからも何事かをなさるのです。

  神の召しが働けば、誰がどう止めようと、自分に残されているのは「信じる道」だけだということになります。「お言葉通り、この身になりますように。」こういう応答を喜びをもってしたくなります。そして、その応答をする人たちにキリストの恵みが堰を切ったように注がれるのです。

  カール・バルトという人は、「神の贈り物を頂くことは、私たちが自由にされることだ」という意味のことを書いています。神の恵みを受け取るとき、喜びと共に喜ばしい自由がやって来ます。その時、神にある自由を呼吸し始めるのです。

  バルトはまた信頼について書いて、「信頼するとは、人間が他の者の信実に頼ることを許されて、その結果、その他の者の約束が力を持ち、それが実現することです」と言っています。「他の者」とは無論キリストであり、神です。

  人間が神に頼ることを許され、その結果、神の約束が力を持ち、約束が実現する。マリアの上に起ったのは、この神の約束が力を持ったからです。彼女はその力に全幅の信頼を置いたのです。その結果が「幸いな女」であり、「おめでとう」であり、クリスマスの出来事です。

  先ほど触れましたように、「お言葉通り、この身になりますように」という応答は、結婚も、貧しいながらの生活も、一切がフイになるかも知れない大胆な応答です。何と向こう見ずな応答でしょうか。

  だが、彼女がこの応答をした時、自分からも人の目からも自由になりました。蔑まれる目からも自由になり、誰かに対抗することから自由になり、自尊心から解き放たれ、今や競うことも不要であり、自分を守ることも、自分は正しいと頑張ることも必要でなく、ただ「主のはしため」として、主に仕えて生きればいいということへと解放されたのです。

  この道を行けば道は拓かれるし、事実として主の言葉が実現して行くという信頼でした。まさに、大船に乗ったような、大らかな信頼。必ず良くして下さるということを、思い煩うことなく信頼することでした。自分が自分に信頼するのでなく、父と子と聖霊なる神を信じることへと導かれたのです。

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  「お言葉通り、この身になりますように。」クリスマスは小ささから始まりました。彼女の小さな応答、小さな献身、小さな服従から始まりました。しかし、平凡な若い女性のこの小さな服従がなされなければ、み子の誕生はなかったでしょう。無論その先に、神のみ告げがなければ一切は始まりませんが。

  そういう意味では、私たち一人ひとりの小さな応答も、小さな献身も、小さな服従もとても大事です。そのいと小さな応答が神様に用いられるのです。

  暴動や政情不安で、日本人なら行くことがためらわれるケニアのナイロビで、11月末にテゼの大会がありました。予定を越えて7000人が、ケニア国内とアフリカ、そして欧米やアジアからも集まりました。

  テゼの大会は、しばしば世界の政情不安定な場所で開かれます。決して過激に走らず、ひたすらキリストに信頼して、祈りと和解に徹し、苦しむ民衆と共に生き、彼らの苦悩に連帯するためです。今、世界でこのような青年大会が開かれるのは殆どテゼが主宰するものだけです。テゼの始めは、「お言葉通り、この身になりますように」というような神への小さな献身、小さな応答、小さな服従があったからです。テゼはそういう献身を大事にしています。

  今回、内戦の続くコンゴ民主共和国から20人が、危険を冒して、ケニアまで3つの国境を越えて来たのが大きな注目を浴びたそうです。コンゴは、去年の11月に、アルセンヌさん夫妻を教会でお招きしたのでご存知だと思います。彼は、日本に亡命したのですが、今なおそこに留まって、信仰をもって人々のために尽くしている人たちがいます。

  コンゴ民主共和国の彼らがこの大会にいること自体が、隔てを越え、和解を作り出そうとする青年たちの願いとその意志の強さを明らかにしていました。緊張と分裂、暗黒と死の陰で覆われている地域にあって、兄弟的な関係を創り出したいという願いや力がそこに現われていました。

  彼らの存在を通して、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」というクリスマスのメッセージが力強く証しされたのです。暗黒に光を輝かす証しが世界の片隅で今も起っているのです。「和解と信頼」を地上に創り出す歩みは、今もしぶとく忍耐をもって続けられています。

  私たちも平凡ですが、キリストを信じるという僅かな応答から、神のみ業が私たちの上に始まるでしょう。アドベントのこの時、キリストが私たちの心に来て照らして下さるように、そして私たちも小さな光を輝かせるように待ち望んで行きましょう。

            (完)

               2008年12月7日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、灯火がともされた聖母子のイコン。フランスのテゼ共同体。)