マリアという若い女性 (上)


   
  
  
                                          ルカによる福音書1章26-38節
 
 
                                 (1)
  クリスマスは大きさから始まりません。小ささから始まります。小さい町、名も知れぬ、誰も相手にしないナザレという町から始まります。この名前は旧約聖書にも、外典にも、当時の歴史書にも出てきません。イエスの時代には全く重要ではありませんでした。そういう、いと小さい町から出発します。

  登場人物は先ずマリアです。しかし彼女は、バプテスマのヨハネの母であるエリサベトのように名門の出ではありません。一介の田舎娘です。

  ルカによる福音書は、マリアの前に、このエリサベトとザカリアの話しを置いていますが、彼らも高齢になって子どもがいない夫婦です。「2人とも神の前に正しい人で、…非の打ち所がなかった」と6節に出てきますが、しかし子どもを願っていたのに、とうとう授けられないで来た人たちです。

  そういう小さい人たち。あるいは小さくされた人たちからクリスマスの出来事が始まります。福音は、偉大な人たちや、功なし名を遂げた人たちから始まりません。むしろ小ささから始まります。

  旧約の出エジプトも、エジプトの王子モーセから始まりません。エジプトで命を狙われ、亡命生活をしていた不遇の羊飼いモーセから始まっています。

  大山教会が不遇とは思いません。この教会が大きな教会でなく、小さな教会であることに私は喜びを感じています。神は小ささの中で、み業をなして下さるからです。私はこの教会の牧師であるのを誇りに思いますし、なぜか知りませんが、大山教会の牧師であることを考えると顔が輝いてきます。頭も輝いています。冴えてくれればいいのですが…。

                                 (2)
  さて、「6ヶ月目に天使ガブリエルは」と冒頭にありました。これは、エリサベトがバプテスマのヨハネを身ごもってから6ヶ月ということです。6ヶ月目にガブリエルが、ナザレに住む、ヨセフのいいなづけで、マリアという若い女性の所に、神から遣わされたのです。

  伝説では、彼女の両親は早く亡くなり、年端も行かぬうちに、下女として働いていたと言います。掃除、洗濯、子守り、雑用などの下働きです。

  主婦は下女ではなりませんが、息子一家と3月まで住むことになりましたが、Aさんの姿を見ていますと、主婦の仕事の多さ、特に子育て時期のその多さを、先週から考えさせられています。Aさんは至って手が早い人ですが、食事作りが終わり、Bちゃんに食べさせると、もう次の食事作りが始まっているような感じです。それが一日中続き、何年か続きます。私だったら投げ出してしまうかも知れないでしょう。

  子育ては相手がいますから、大人の予定通り行きません。私は、自分の予定が狂うと、気も狂わんばかりになる頭の固い男ですから、なおさらです。核家族の若いお母さん達が、夫の理解が少ない場合には、育児ノイローゼになるのは当然と言っていいでしょう。

  マリアは、下女です。雑用に次ぐ雑用の下女の仕事です。言いつけられた事は従順にしなければなりません。反抗的な人は勤まらないでしょう。自尊心を捨てなければなりません。そこが辛いところです。これまで涙の日をどれほど味わったことでしょう。しかも、主人達の前で涙を見せることは許されません。

  以前、バリ島のYMCAに数日泊まった時、10数人の大家族でインド人かどこかの家族が来ていました。赤ちゃんや子ども達も一緒でした。彼らは下女と下男を連れていましたが、無論一切の口答えは許されません。主人たちに対して会話も自由にできない固い雰囲気でした。いつ用事を言いつけられるかと、緊張して待っていました。私にはあれはできないです。

  すべて手のかかることは下女、下男がしていました。3世代の大家族に、全く無言で、身を粉にして忠実にかしずいているのに驚きました。昔はあったにしても、今では日本で全く見かけない風景で、下女や下男の大変さを生まれて初めて垣間見ました。

  マリアは僅か10歳頃からそういう仕事をしていたのです。今だと小学4、5年でしょう。世間のことも、人の心の動きも全く分からないうちから、感情も権威も露わにする大人たちに翻弄され、ただ黙々と仕える子どもです。どんなに多くの辛いこと、口惜しいこと、恥ずかしいこと、難儀なことを経験して来たことでしょうか。

  この後、46節から「マリアの賛歌」と言われる有名なマリアの歌が載っています。そこに、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さいました」とあります。「はしため」ですから、身分が低いだけでなく、身なし子であり、貧しさと学がないため、下女としてこき使われ、蔑まれ、卑しめられもし、反抗的な態度も取り上げられていたのです。強い魂の渇きを覚えていたでしょう。

  人生の過酷な試練と悲しさのために、人としての堪えられないような存在の軽さ、塵のような小ささを感じていた人です。

  ただ、「この主のはしためにも、目を留めて下さいました」とあります。人から卑しめられながら、マリアの心は、高き神、聖なる主を仰ぎ、主に助けを期待して、「私の魂は人に仕えるのでなく、主に仕えます。たとえ低い所で人に仕えなければならないにしても、魂は主に仕えるのです。」このように心の内で歌って、堪えながら、主に顔を向けて生活を送っていたと想像されます。

  「マリアの賛歌」からは、彼女の魂の叫びが聞こえて来ると共に、神を力いっぱいほめたたえる歌声も聞こえます。

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  そのマリアの所に、天の使いガブリエルが来て、「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられます」と語ったのです。

  彼女はこれまで、一度も「恵まれた方」と言われたことがありません。「恵まれた方」とは原語で、「優しさや思いやりを受けた人」、「好意や親切を受けた人」の意です。だが、彼女はそう言ったものとは無縁の世界で暮らして来ました。

  「おめでとう」という言葉が、人に言われるのは聞きましたが、自分に言われるのを聞くのはまったく不自然でした。いや、決して自分に言われてはならない言葉だったでしょう。それほど、自分を卑下して生きて来たのがマリアです。

  ですから29節で、彼女は、「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと、考え込んだ」のです。前の訳は、「思い巡らした」となっていました。その言葉を色々考え、思い測り、考え巡らしたのです。

  天使は、「恐れることはない」と言いました。彼女は、場違いとも言える明るい言葉をかけられて、「恐れ」を抱かざるを得なかったのです。ガブリエルの御告げを聞けば聞くほど、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」としか言えませんでした。

  しかし天の使いは、「あなたは身ごもって男の子を生む。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。…神である主は、父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め…」と語りました。そして更に、

  「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる…」と語ったのです。

  マリアはヨセフのいいなづけですが、まだ結婚していません。未婚の自分が子どもを産めば、ヨセフとの結婚は破棄されるでしょう。その上、世間から何と言われて爪弾きにされ、爪弾きにされるだけでなく仕事も収入もなくなるでしょう…。

        (つづく)

                2008年12月7日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、2つの明かりが灯った待降節第2主日。写真のような明かりになった理由は、7日のメッセージをご覧下さい。)