あなたは真理に導かれる (上)


  
  
                                                                                        ヨハネ6章12-15節

                                 (序)
  アドベントの灯(ともしび)が1つつきました。今日からアドベントが始まります。普通ならローソクが灯される筈が、どうして赤いランプやみどりの木の枝などが置かれているのか、不思議に思われる方があるかもしれません。最近来られた方々のために、先ずそのことからお話いたしましょう。

  私がこの教会に来て初めてアドベントを迎えた年、普通の教会のように4本のローソクを立てて、先ず1本のローソクに火がつけられてアドベントを迎えました。ところが臭いにとても敏感な方がおられて、ローソクの臭いがあると苦しくなり、会堂に入って来れないことを知りました。急いでローソクを消しましたが、消した臭いがまた臭いますから、すぐにローソクを牧師館に持って入りました。

  たとえクリスマスでも、人間よりローソクの方が大事だということはありません。ローソクをつけてアドベントを迎えるのがキリスト教の正しい伝統であり、ローソクが厭な人は教会に来なくても結構ですと、私たちは考えなかったのです。そこで、ローソクのないクリスマスを迎えようと思いましたが、何とか工夫できないかと思って工夫して思いついたのが、このような明かりのつけ方でした。

  ローソクのように明かりが先で燃えるのでなく、これは明かりが内に灯ります。クリスマスを迎えようとしている時、私たちの心にも明かりが灯され、キリストが心の中で待ち望まれ、入って来られることを象徴しています。これこそ神が下さるクリスマスの恵みの象徴です。

  恐らく世界でただ1つ、大山教会にしかない貴重なクリスマスの迎え方です。

  これは、その方がおられるから工夫できたことで、神様がその方をこの教会に送って下さっているから生まれたのです。ですから、神がこのような様式を編み出して下さったと感謝しています。また、その方がこの教会におられることにどれだけ感謝していることでしょう。

  私たちの教会では、どんな人も受け入れられます。イエスは、全ての人を照らすまことの光として世に来られました。神が私たちの間に宿り、人と共に生きられました。であれば、自分と異質な人も神が送って下さったのであれば、工夫すれば必ず共にあることができる筈です。神は、その様にしてどんな人とも生きよ、生きる道を探れと言っておられると、私たちは考えています。多様な者が共に座っているのは素晴らしいことです。

                                 (1)
  さて、イエスは今日の聖書の冒頭で、「言って置きたいことは、まだ沢山あるが、今、あなたがたには理解できない」と言っておられます。イエスはすでにご自分の十字架の死についてお話になり、そのため、弟子たちの「心は悲しみで満たされ」たと、6節に出ています。

  それで、弟子たちの頭が、イエスの十字架の死のことで一杯になって、これ以上何を言っても理解できないだろうと言われたと解釈できるでしょうか。

  確かに、私たちも何かのことで頭がいっぱいになると、横から何かを言われたりしても、煩わしさもあって十分理解できません。そんな場合、家では遠慮がありませんので、皆さんは優しいからないでしょうが、私などは、「今、言わないで!」とか「今、話しかけないで!」と怒鳴る事があるんです。そんな時は相手の顔も見ません。見ると…。歳が行くと夫婦は好い所じゃなくて、悪い所が似るんですね。最近は私が話しかけると、「今、話しかけないで!」って2倍もきつく言われて…。

  冗談はともかく、誰しも頭が一杯の時は、理解できなくなるのが私たちです。

  ただ、この箇所は前の訳では、「私には、あなたがたに言うべきことが多くあるが、あなた方は今、それに堪えられない」となっていました。

  これだと、弟子たちは、イエスとの別れの悲しみで心を痛めている。もうこれ以上弟子たちは聞くのは「堪えられない」だろうと、イエスが思われたという事です。こちらの方が事実でないかと思います。

  イエスが弟子たちの悲しみを察して、安心させ、元気づけようとしておられる姿がここにあります。自分のことより相手のことを思いやる。そこに愛があります。イエスは、まさに愛の人であられたことがここからも分かります。

  言葉を変えて言えば、イエスは弟子たちに、「私は、あなた方が負い切れない程の重荷を決して負わせることはない」と語られたということでもあるでしょう。

  ただ、イエスは口先だけで話されません。人間でも、口先だけの人かどうかは分かりますし、そういう人は信用されなくなり、卑しめられます。

  イエスは口先でない証拠に、13節にあるような約束をされたのです。それが、「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起ることをあなたがたに告げるからである」という言葉です。

    (つづく)

                2008年11月30日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、廃物利用の手作りクリスマス・リース。)