最後に明らかになる姿 (下)


 
                                                                                       マタイ25章1-13節
 
                                 (3)
  今日の聖書には「賢いおとめ」と「愚かなおとめ」とが出てきます。ここを読んで、賢いおとめが尊ばれ、愚かなおとめが差別されていると感じる人があるでしょうか。賢いおとめは特別可愛がられているように感じ、愚かな人は頭からダメだと決め付けられているように受け取る人があるかも知れません。しかしここで言われているのは、頭の良し悪しでは全くありません。

  人生には必ず、油が足りなくなるようなことがあります。愛の火も信仰の火も消えそうになることがあります。その時、油を用意している人か、用意していない人かの違いが言われているのです。頭の回転の早さとか、抜け目のなさとか、才能があるとかないとかに関係なく、神に対して心を向けている人、人生の本質的なものに向かって準備を整えている人を、「賢いおとめ」と呼んでいるのです。そしてこの世のものには人一倍熱心に心を向けるが、人生と生活の本質的なものには心を向けないし、準備をしない人を、「愚かなおとめ」と言っているのです。

  では、なぜ賢いおとめは愚かなおとめに油を分けてあげなかったのでしょうか。「分けてあげるほどはありません」と、何故言ったのでしょうか。賢いおとめは、冷たいおとめでもあるのでしょうか。

  そうではなく、神との関係は誰か他の人から拝借して来れるものではないからです。信仰は一人ひとり、各自が持つものです。誰が呼吸を代わりにしてくれと頼むでしょうか。愛がどんなに熱くあっても、これだけは分けてあげれません。信仰は貸すことも、借りることもできません。賢いおとめは冷たいのでなく、神と人間の本質を知っているからです。

  人の品性だって人から借用できるものではないでしょう。またある役職に就いたからと言って、品性が直ちに備わるものではないでしょう。普段の準備が大事です。今の首相の言動が問題になっていますが、首相になったからと言って一国を代表しうる品性が備わるわけではないでしょう。品性だけでなく、漢字もろくに読めないのでは、その見識が問われないでしょうか。

  以前、幼稚園では若いお母さんたちの子育ての会を持っていました。お母さん達は子育ての悩みで色々と相談されます。友達とのトラブルや遊びの問題、幼児の病気やケガのこと、小学校への準備、塾のことなどどうすればいいのか、具体的な処方箋を聞かれます。むろんそれは大事ですから妻が受け持って話しましたが、私は子育ての原点になるものを話しました。それはお母さんたちの神との関係です。神の前に出る真摯な生き方であり、人生への真摯さです。心の原点になるものがあれば、子どもが何才になっても新しく起る色んなことを、母として、人として担っていけるからです。神と心からの交わりがあれば、人生の色んなことをどう担っていくか、必ず示されるからです。

  いずれにせよ、神との関係は人に貸すこともできませんし、代わって上げることもできません。賢いおとめは冷たいわけでなく、生き方の本質を語ったのです。

                                 (4)
  終わりに、この譬えの最後で、主人が愚かなおとめたちに、「はっきり言っておく、私はお前たちを知らない」と言ったとあります。これは私たちの信仰と生活への警告だと思います。

  今日の続きにある、14節からはタラントンの譬えがあります。その最後にも、タラントンを地に埋めて何もしなかった僕に、主人が、「この役に立たない僕を、外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と言うのが出てきます。

  私たちは、これらの譬えに含まれている言葉を、いささかも割引したり、緩めたりして聞いてはならないでしょう。その様な裁きの手を、神は決して緩められないものと考えなければなりません。

  その前提に立って考えさせられるのは、これらの厳しい、断固たる警告と、今日の13節の、「だから目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないからである」とイエスがおっしゃる言葉の間に、落差があるということです。僅かな落差の中に決定的な落差が含まれています。

  イエスは、これらを譬えで「警告」されたのであって、イエスご自身が「私はお前たちを知らない」とか、イエスご自身が、「この役に立たない僕を、外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と言われた、とは書かれていないことです。

  このことは、しっかりお聞き頂きたいと思います。

  すなわち、イエスは譬えで警告をされますが、それは愛ゆえの警告です。普通の常識ではこうされても反論できないとおっしゃっているのです。世間ではそう扱われても当然だ。仕方がない、と言われるのです。だが、イエスご自身は、愚かなおとめを排除しようとして話されていないと、私は思います。また、タラントンを地面に埋めておいた僕を断罪しようとしておられません。これは愛ゆえの、譬えによる警告なのです。

  愛には警告があります。どうして自動車が来るのに、飛び出す子どもを叱らない母がいるでしょうか。危険ないたずらをしたら、母親は涙を流して子どもを叩いたり、抱きしめたりしないでしょうか。それは愛がないからでなく、愛ゆえの厳しい叱責です。

  ですから、油を用意すること、信仰の備えをすることはどれだけ強調しても強調しすぎることはありません。

  しかし信仰というのは、自分の努力や力で、あるいは備えをすれば救いに達するものでしょうか。むしろ罪の深い私たちが、キリストの十字架と復活の恵みによって罪赦されて救われたのが、キリスト者です。キリストを信じることによって、信じる者すべてに与えられるのが神の義です。神は裁きの手を決して緩められない故に、私たちに代わって神に裁かれて、死んで下さったキリストの身代わり。そのキリストの真実の犠牲の故に、神はキリストを信じる者を救おうとされました。キリストの真実を信じる信仰の故に、何の業も、功績もなしに、神の憐れみによって、無償で義とされ、救われるのです。

  ですから、イエスは警告を語られますが、警告と共にこの愚かなおとめに対して、また私たちに対して、あなた方も来なさい、準備のないあなた方も来なさい、あなた方は花婿が来たとき、遅くなったが油を買いに走った。急いで走った。良くぞ走った。あなた方も来なさい、と言って下さらない筈がありません。

  イエス・キリストは、「私は、迷える一匹の羊を探し出して、連れ帰るために来ました。私はあなた方のために来たのです。恐れず来なさい。来て神の国に入りなさい。今も遅くありません。さあ、救いに入って来なさい」と、私たち全てに言って下さるのではないでしょうか。

  イエスは20章にある別の譬えで、「私はこの最後の者にも支払ってやりたいのだ」とおっしゃっています。そのイエスが愚かなおとめ同然の私たちに冷たくされる訳がありません。

  その様に言って下さるイエスは、むろん、「目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないからだ」という言葉をいささかも取り消されるお方ではありません。

  それは、私たちが愛されているからであり、神に喜ばれる者になることを願う愛のお方であるからです。

                                            (完)
     
               2008年11月23日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、秋のホントネー修道院。)