最後に明らかになる姿 (上)


  
  
                                            マタイ25章1-13節
  
  
                                 (序)
  今日は「最後に明らかになる姿」という恐ろしい題をつけました。最後に明らかにされる自分の姿、素顔。最後というのは、終末という意味です。終末に自分の本当の姿が暴露される。

  自分がつけた題ですが、題を目にして、私などは色々都合が悪いものがありますから、「最後に明らかになる姿」なんて溜息が出そうになります。皆さんはありません?

  今日は教会の暦では一年の最終の日曜日で、来週からアドベントが始まり、今日は「終末主日」です。終末主日とは、世界には終りがあるということを覚える日です。再び神が来られる。再臨のキリストとして再び神が来られ、その日、一切のことは、隠されていたものも神の裁きの下、白日の下に明らかにされる。誰も、隠れることも隠すこともできない。すべてが最後的に明らかにされる時が来る。そういう世の終わりの日を覚える日曜日です。

  それと共に、自らの終末も覚えます。誰しも自分の最後の日はいつか知りません。日本の新聞では報道があったかどうか知りませんが、金曜日にアメリカの司法長官が、名士たちが集まる会の冒頭でスピーチしましたが、その途中で意識不明になって倒れました。ブッシュ政権を支えてきた保守派のタカ派の人物です。今日の13節に、「目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからである」とありましたように、いつ、どこで最後を迎えるか、誰も分かりません。

  終末主日は、自分の人生には終りがあることに、恐れおののきを持ち、あるいは人によっては感謝をもって新たに認識する日です。命は神から一時貸与されたものです。限定された時間の中に住んでいることを再確認するのです。限定されていますが、忍耐にも限りもあるでしょう。でも必ず最善の時にお召しくださるのです。そんなことを私はまだ考えないという方がおありでしょうが、ここには今日が最後かも知れない、この冬が最後かもしれないと考えつつ、一度でも多く礼拝に出たいと思って、今日の終末主日に感謝をもって出ている方もあります。

  それと共に、世の終りには神が審判者として来られること。人間が下す一切の裁きや判決を超えて、神が最後決定的な真実な判決を下してくださる。それはある者にとって、やっと胸のつかえが取れる日です。最終的な決着が付けられる、喜びの日とも言える日です。

  厚労省の元役人を殺した犯人が自首したと今朝の新聞で報道しています。人を殺しても何ら決着にはなりません。「人の怒りは、神の義を全うすることはできない」と聖書にある通りです。終末を待たねば、何が真で、何が間違いかも、時間内では決して分かりません。永遠の決着は、神のみが付けてくださるのです。神の前にしゃしゃり出て裁くことは赦されません。

                                 (1)
  さて今日の聖書ですが、イエスの生まれたパレスチナには、ついこの間まで結婚式の変わった習慣があったようです。というのは、結婚式が近づくと、10人の若い未婚の女性達が華やかに着飾って、楽器を奏で、踊りながら花嫁、花婿のために練り歩くのだそうです。彼らは花嫁の友だちで、結婚式が終るまで花嫁に付き添う人たちです。

  変わった習慣というのは、花婿は、今夜来るのか、明日の夜に来るのか、何日後に来るのかさっぱり知らされず、昼間でなく夜に不意にやって来る習慣だったからです。ですから、みんなが寝静まった真夜中に来るかも知れませんから、花嫁に付き添う女性達は寝ずに待たねばなりません。

  また、明かりをつけずに迎えてはならないことになっていましたし、花婿が着けば、すぐに戸が閉められてしまって、遅れると結婚式に参列できない習慣です。

  結婚式はむろん花嫁にとって晴れの舞台ですが、10人の若い女性にとっても晴れの舞台です。明るく輝くランプを用意し、最高に着飾って、いつ花婿が着いてもいいように用意しておかなければならないのです。

  そういう習慣の中で、イエスは今日の「10人のおとめのたとえ」を話し、天国の譬えをされたのです。

  5人の賢いおとめは、ともし火の油を用意していたが、他の5人は油を用意していなかった。花婿が来るのが遅れ、皆、眠気がさして眠り込んでしまった。ところが花婿が真夜中に突然やって来た。「花婿だ、迎えに出なさい。」これは、花婿の付き添いで来た友達の声です。呼ばわるその声に皆、一斉に目を覚まして支度した。そこで起ったのがこの話です。

  賢いおとめたちは、喜びをもって迎えに出て花婿をすぐ花嫁の所に導いたが、愚かなおとめたちは油の用意がなくて、真夜中に油を買いに走らねばならなかった。戻ってみると、もうとっくに戸は閉められていて、何と頼んでも開けてくれないばかりか、「私はお前たちを知らない」と、中から冷たい声がしたというのです。

  イエスはこう話して、「だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないのだから」と語られたというのです。

                                 (2)
  私たちはここから、改めて、人生には「時すでに遅し」という事があるということを聞きます。準備を怠っていると、人生の終末になって、間に合わないことがあります。油というのは人間としての備えであり、信仰の備えです。人生を終えるまでに時間は十分あったのに、準備をしなかったために神に出会えないかも知れない。真摯な意味での、信仰と人生の準備を私たちはしなければなりません。

  きのうのお昼は、妻がいないことを幸いに、外で食事をしようと出かけました。私は愚かな人間です。気分が変わると、説教の準備にも効果があるのじゃあないかと思いまして出かけました。それで、ある美味しい店に入ってランチを注文したんです。美味しいものを食べれば、美味しい説教ができるかと思って。やっぱり愚かです。そして、横の人たちを、こう見まわしながら、何気なくポケットに手を突っ込んで、びっくりしました。札を入れたつもりが、玄関で別の事が起って札の準備を忘れたんです。小銭入れは持っていましたが、多分足りません。美味しいものですから。「時すでに遅し」です。あわてて一こと言って店を出ました。他のお客さんがびっくりしていました。やっぱり美味しいものを食べるには、お金の準備がなきゃダメです。

  「その日、その時がいつかあなた方は知らない」とありますから、信仰の火が消えないように信仰の油を用意するということ、信仰の準備は怠ってはならないと思います。

                                 (3)
  今日の聖書には「賢いおとめ」と「愚かなおとめ」とが出てきます。ここを読んで、賢いおとめが尊ばれ、愚かなおとめが差別されていると感じる人があるでしょうか。賢いおとめは特別可愛がられているように感じ、愚かな人は頭からダメだと決め付けられているように受け取る人があるかも知れません。しかしここで言われているのは、頭の良し悪しでは全くありません。
  
     (つづく)
   
               2008年11月23日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ホントネー修道院。)