プロテスタント日本伝道163年 (下)


   
                                        
                                          使徒言行録14章1-7節
   
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  さて、今日は「プロテスタント日本伝道163年」という題です。しかし、プロテスタントの最初の宣教師が来日してから、来年で150年になるとも言われます。1859年、安政6年に江戸幕府が外国に3つの港を開港し、遂にウイリアムズ、ヘボン、ブラウン、フルベッキといった宣教師たちが6人日本に来ました。

  ヘボンヘボン式ローマ字で一般にも馴染みのある人です。正しくは「ローマの祝日」のヘップバーンと同じ苗字ですから、そう呼ぶ方がいいでしょうか。1859年というと安政の大獄があった年です。翌年の1860年には桜田門外の変が起こりました。丁度、「篤姫」の大河ドラマの時代です。大政奉還はこれらの宣教師が来て8年後に起ります。しかしまだキリスト教は厳禁です。明治6年にやっとキリシタン禁礼の高札が撤去されます。

  ヘボンは宣教師と言っても牧師でなく、医療宣教師ですが信徒です。やがて明治学院の初代総理になります。同じ年に来たウイリアムズは池袋の立教大学及び立教女学院をやがて創立します。

  ヘボンという人は、同時代のアメリカ人が書いた本によれば、「子どものように臆病」な人、「臆病な子猫」のような印象を与える人だったといいます。ところが、「難局に遭遇すると、剣を帯びた騎士のように大胆になった」と言います。本当に腹が据わっていたのでしょう。また、「暗殺者や暗殺者の凶器を少しも恐れず、大小の刀を帯びた武士でさえその勇気ある姿に顔色を失うほど」であったと言います。先に述べたように、まさに魂も体も地獄で滅ぼすことのできる「方」を知っていた。そういう「方」と出会っていた。だから腹が据わっていた。

  また彼は、「人間が出会う困難の大部分は,大胆に立ち向かえば単なる空想の所産に過ぎず、キリスト者にとって、神と正義のために戦う力は、真理とそれを信じる者に刃向かう力を遥かに凌駕するということを」知っていた、と言うのです。普段は小柄な人ですが、「一旦神の命令を伝えるラッパの音が鳴り響くや、たちまち勇敢な兵士に変身」したとも書かれています。

  ヘボンは、「主を頼みと」して大胆に伝道したパウロに、どこか似ている所があったように私は思います。            
   
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  さて、最初の6人の宣教師が日本に来たのが今から149年前。来年は150年の記念の年というので集会が開かれます。

  しかし、実はそれは内地のことで、沖縄にそれより13年も前の1846年、来年で163年前にベッテルハイムという宣教師が来て、8年間にわたって伝道しています。当時、沖縄は琉球王国ですが、幕府の支配下にありました。しかし現在沖縄は日本です。すると微妙ですが、今は日本ですから、来年はプロテスタント日本伝道150年でなく、今日の題のように「プロテスタント日本伝道163年」であると言う方が正しいのです。

  別に争うつもりはありませんが、沖縄の人は、来年が日本伝道150年だと言われると、じゃあ私たちは日本じゃないのかってことになりません?気を悪くするんじゃないですか。内地より13年も前に始まった沖縄のことをどうして切り捨てるのか?沖縄は内地に都合が悪い時には切り捨てられ、また都合で仲間に入れられ、また都合でお前らの歴史は大した事じゃあないから、それを勘定しませんって言うんじゃあ、余りにも内地の人間の勝手だということになるでしょう。そういう間を裂くことはすべきでないと私は思っていますが、どうでしょうか。

  いずれにしろ、今と違い当時は、最初は帆船で太平洋を渡り次に汽船になりましたが、彼らは何ヶ月にもわたって危険な荒海を越えて日本に来ました。特に沖縄に来たベッテルハイムさんは、アメリカからでなくインド洋を廻ってイギリスから来ました。沖縄を目指して奥さんと赤ちゃんを連れて来て、船の上で第二子が生まれましたから、これはもう筆舌に尽くし難い来日です。沖縄まで1年余の長い船旅です。

  一年余ですから、出発の時は船の上で赤ちゃんが生まれるとは思っていなかった。それで突然の子育てでしょう。沖縄に着いてからも食べ物も色んなものが違い大変だったと思います。こんなことを知ると、今日、多少の困難があっても人間は過せるわけで案ずるより生むが易しで、大した事はないかも知れません。

  今ならピース・ボートとか言って豪華客船で世界一周の旅なんかして目と食欲を楽しませる豪遊でしょうが、彼は高い目的を持って、家族を連れての旅です。彼は内心、4つの目標を立てています。一つは琉球伝道。第二は聖書の日本語訳。第三は西洋医学による医療活動。第四は科学知識を伝える学校の設立、です。すべて他者のためです。

  彼は、元はユダヤ教徒ですがキリスト教に改宗し、パウロのように外国伝道を志しました。先ず医者になり、ロンドンで医療に携わって海外伝道の準備をします。彼は13ヶ国語を話したと言います。

  沖縄に1846年に着きました。沖縄も江戸幕府の下でキリシタン禁制です。入国を拒まれますが、江戸から遠いですから強引に上陸できました。護国寺の境内に軟禁されて、役人が常駐して、24時間常時行動が監視されたそうです。

  でも外出は案外自由で、那覇のあちこちの市場に出かけて習いたての琉球語で伝道したそうです。エッ、すぐに?っと、驚きます。百人を越す聴衆が集まる中で神の道を説きました。相当肝っ玉が据わっていたって事です。住民への医療活動もほぼ自由にできました。ただそれは1年半だけで、それ以降は監視体制が強化され、町内会単位で彼らを監視し、ベッテルハイムが外出する時は、役人が先に立って住民を追い払ったそうです。住民への影響を恐れて、彼と接触するのを厳禁したのです。彼が、各戸に伝道のビラを配ると、その後すぐ役人がそれを回収したそうです。日本人は几帳面ですね。

  それでもベッテルハイムは伝道を放棄しませんでした。彼の胸にはいつも、「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という言葉があったそうです。彼は国を出る時、その言葉を授かったそうです。

  彼は琉球王にしばしば進言しました。「琉球の地の主権者は琉球王かも知れないが、この世の主権は神にあるので、琉球王国自らキリストの教えに従うべきだ」と。文章と実際の言葉は違ってもっと穏やかだったでしょうが、こういう意味のことを言って説いたのです。

  色んな妨げがあっても住民との接触をやめませんでした。でも、住民の方から密かに彼に接触を求めて来たそうです。彼は、市場などで、「神の前では、国王も庶民も皆平等である」と大胆に説いたのです。「国王も庶民も皆平等」とは庶民への喜ばしい福音です。彼はまさに、パウロのように「主の恵みを証し」したって事です。

  8年間の伝道生活で、役人や住民から暴力を振るわれることが何度もあったそうですが、40人ほどが求道者になりましたし、10人ほどが洗礼を受けました。これは大きな成果です。

  ベッテルハイムの紹介は以上で終わりますが、沖縄伝道は彼の8年で終ったのではありません。その後に続く人がありましたし、彼の影響を受けて宣教師になって内地の日本に来た人もあります。そして彼の琉球語訳聖書、また日本語訳聖書も出版されました。また彼の直接の業ではありませんが、やがて沖縄にキリスト教主義の大学が生まれ、ベッテルハイムの研究者も出ています。

  当時、天然痘(疱瘡)は恐ろしい病気でした。住民の3分の1が死ぬって事もしばしばありました。一般に天然痘の予防の牛痘法を初めて日本に導入したのはモーニッケという医師だとされていますが、実はベッテルハイムがその前年に沖縄で導入しています。

  「隠されているもので現わされないものはない」のです。日本の片隅でなされることも、神の目には明らかです。また必ず覚えられています。その伝道を私たちの主観で過小評価してはならないのです。

  プロテスタントの日本伝道163年、あるいは150年。いずれにしろ、私たちはこのような信仰者の、恐れを知らない信仰によって今日の日本のプロテスタント教会があることを、心から感謝したいと思います。そして、私たちも恐れず、「主を頼みとして」、その「恵みを証し」していきたいと思います。

                                            (完)
  
            2008年11月2日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ホントネー修道院の中庭。)