プロテスタント日本伝道163年 (上)


  
                                             
                                          使徒言行録14章1-7節

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  民族や国家の垣根を越えることは大変なことです。今では日本でも国際結婚が盛んですが、それでも色んな偏見がありますし、外国人が日本社会で暮らすには習慣が根本的に違うので、誤解と共に、外国人への拒否反応が今でも各地で起ったりしています。

  古代社会において民族を超えるのは並大抵なことではありませんでした。特にユダヤ民族は他民族を汚れた民としていましたので、その分厚い壁を越えることは大変な危険を意味しました。

  しかし、使徒言行録を見ますとペトロが最初に勇敢にもその壁を越えて行きます。だが、彼自身の考えで越えたのでは全くありません。彼はそれを示されたとき、「めっそうもありません。そんなことはできません」と断固拒否しました。しかし、神の霊が何度も強く迫って彼はやっとそれを越え、ギリシャ人に福音を伝えたと書かれています。

  異邦人伝道を一生の課題にしたのはパウロでした。恐らくパウロがいなければ、遥か日本には福音は伝わらなかったでしょうし、世界は、今よりも数倍互いに理解し合うことは難しかったでしょう。民族や国家、言語や習慣の分厚い壁を越えることは、パウロの果敢な闘いがなければ、恐らく一歩も進まなかったでしょう。

  アメリカの大統領選挙が4日に投票されます。民主党オバマさんが大勝利すれば、黒人差別という非常に分厚い壁である肌の色を越える歴史的事件にもなるでしょう。そこには、マルチン・ルーサー・キング牧師などの信仰に基づく、勇敢な、厚い壁との戦いがあったからです。これは、アメリカだけでなく世界の歴史に残る選挙になるでしょう。

  しかも国境の厚い壁も越えています。彼の父親はケニア人です。彼の父を育てたおばあちゃんが87歳でまだヴィクトリア湖の近くで生きていますが、今も以前と生活は変わらず、2部屋の貧しい家に住んでいます。ソファーがあるそうですが、何と段ボール箱を切り抜いて作ったソファーだそうです。テレビが最近届いたそうですが、裏庭から鶏たちが部屋に入って来てテレビの箱を突っついているそうです。

  オバマさんの人気の理由の一つは、傷つけられても復讐しない。それがお年寄りの尊敬を集めているそうです。それが白人のお年寄りとの隔ての壁を薄くしているのですが、ここにも信仰の働きがあります。

  パウロは厚い壁を越えていった人ですが、元はユダヤ教徒です。キリスト教徒を迫害する中で、突然キリストと出会って回心し、やがて現在のシリアのアンティオキアを拠点にする教会から、宣教師として異邦人伝道に遣わされて行きます。アンティオキア教会の、断食と祈りを伴う熱い信仰に支えられながら、3度にわたって異邦人への壁を越える大伝道をしました。

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  さて今日の聖書は、その最初の伝道旅行で、信仰の兄弟であるバルナバと一緒にシリアから地中海のキプロス島に渡って伝道し、その後、現在のトルコに渡って、何と100kmも内陸部に入ったピシデア地方のアンティオキアで伝道します。何日もキリストの復活を説いて、多くの人がパウロの話を聞きに来ました。その結果福音がその地方の異邦人の中に広まりました。

  しかし、ユダヤ人たちは、群衆がパウロの説教を聴いて信仰に入るのを見て、「ひどく妬んだ」とあります。それで町の主だった人たちを扇動して、パウロバルナバを迫害し、その地方から追い出していきます。

  しかし2人は、酷い迫害にも拘らず、彼らの信仰は強く、いわゆるトラウマにはならなかったのです。迫害されても怯えないというのは凄いと私は思いますが、皆さんならどうでしょう。それで、迫害にも拘らず行く先々で伝道して、今日読んで頂いたイコニオンという町でも、ユダヤ人の会堂で同じようにキリストの福音を語り、「大勢のユダヤ人やギリシャ人が信仰に入った」と書かれています。

  この町の伝道が易しかったというのではありません。2節に、「信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」とあります。この町でも彼らへの激しい妬みが起ったのです。

  妬みというのは熱心なあまり起る恨みです。妬みという漢字は女性差別的な感じですね。妬みや恨みという言葉は元々、ギリシャ語では沸騰する、燃え上がるという言葉と近い関係にあります。恨みというのは、感情的に熱くなると沸騰するのです。教会ではありませんが、いっつも悪口を言って沸騰している人がありますが、これは徒党を組んでいるのです。そして恨みは燃え広がります。人間はこういうぬぐいがたい罪を持っています。

  しかしパウロキリスト教を迫害していた頃は、この恨みや妬みで激しくキリストの弟子たちを迫害していましたから、彼はユダヤ人の激しい恨みの感情をよく理解できたに違いありません。それを何とか溶かそうとしたでしょう。だが、余りにも激しく激昂する彼らに手が付けられなかったのです。

  それで諦めたかというと、3節に、「それでも、2人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」と言います。そんな所でも長く留まりました。短気じゃなかったんです。私たちは簡単に「主を頼みとしています」と言いますが、「主を頼みとする」とは、本来パウロのように命をすっかり主に任せて、勇敢に進むことを言うのでしょう。

  その結果、「主は彼らの手を通して、しるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされた」とあります。こんな大変な時なのに、「恵みの言葉」が町の人々に証しされて行ったというのは、本当に驚きです。

  目には目をではありません。恨みや妬みにも拘らず、恵みや主の愛が証しされていったのです。

  5節には、「2人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」と出ています。そんな時にも「恵みの言葉」が証しされて行ったということは、本当に私たちが心に覚えなければならないことです。

  だが、2人への迫害が更に迫って遂に難を避けるのです。そして、「リストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた」のですが、難を避けた「そこでも福音を告げ知らせた」とあります。

  何たる逞しい精神力でしょう。「主を頼みとする」ということは、単なる頑張りではありません。イエスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われましたが、主を頼みとして、彼らはこういうお方に信頼して生きたから、こういう力が与えられたのでしょう。

  信仰は雰囲気ではありません。いい雰囲気の所に行って、心が落ち着くというのでなく、こういう方を信じるから心が落ち着く。魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を知って、心が落ち着くのが信仰です。そこが一番大事なことです。

  また、これは単に相手に勝つというような事ではありません。自分に打ち勝たなければ相手に勝つ事はできません。彼らは神に信頼することによって、先ず自分に打ち勝って行ったのです。

    (つづく)
              2008年11月2日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ホントネー修道院の集会室の美しい交差ヴォールトの曲線。1140年頃の建築。)