創造性の源 (下)


  
  
                                       ガラテヤ5章13-26節
  
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  「肉の業」について語った後、パウロは「霊の結ぶ実」というのを対置しています。神の霊は私たちの中で一つの実を結びますが、その実は色々な側面、色々な表情を持っています。それが、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といった多様な実りです。霊に導かれる時、愛、喜び、平和といったかぐわしい実を結びます。

  私は、祈りをどうしても欠かすことができません。祈りは神との現実的な交わりであるからです。ですから、イエス様が命じられるように、毎日ただ一人、キリストの前に1時間か1時間半ほど出て祈ります。そして、聖書から聞き、賛美を歌い、皆さんのお名前をあげて祈る生活ぬきには、私の牧師生活はありません。これは自慢でなく、私はそうせざるを得ないのです。それをしなければ自分はダメになるに違いありません。

  私は祈りをする時、テゼ共同体で使っているイコンを用いています。ただイコンは拝むものではありません。偶像ではありません。キリストを黙想し、黙想を助け、深め、また思いをキリストに集中させてくれるものです。

  それでそのイコンですが、最近教会に来られた方はご存知ありませんので、少しお話させて頂きます。これはエジプトの砂漠で1900年に発見された「キリストとメナ師」という世界有数の古いイコンです。ほぼ6世紀末のものです。メナ師は当時の砂漠の修道者たちの指導者です。

  ご覧のとおりキリストとメナ師の背後には、荒涼とした、一本の草木も育たない黒々した砂漠の岩山が連なっています。空気は乾燥し切ってカラカラです。荒れた砂漠に、キリストが来ておられるのです。「私を信じる者は、決して渇くことがない」と言われる方が、砂漠に来て傍らにおられるのです。だが、キリストのお顔は何と落ち着いた、平和で、穏やかなお顔でしょう。砂漠にありながら苛立ちは少しもありません。この方の口から出てくるのは、荒い、トゲトゲした言葉でなく、優しい、憐れみ深い、慈しみの言葉です。

  私は妻から、私の口から出てくるのは、辛らつな言葉だと叱られています。しかし、イエスの口には慈しみと希望の教えがあふれています。

  キリストは、右側にいるメナ師と肩を組んでいます。このメナ師は私たちです。東京砂漠という歌がありますが、キリストは、砂漠のような場所に生きる私たちの傍らに来て、肩を組んでくださるのです。キリストはメナ師より少し大きいです。本当はキリストは途方もなく大きい方ですが、この大きさは一つの象徴です。キリストは、どんな危険な所、荒れた所にも来て穏やかに私たちの友となって歩いて下さるのです。私たちは一人ではありません。人や将来を恐れる必要はありません。必ずキリストの助けの手があります。

  時刻は、夕日が西の地平線にすっかり沈んで間もない頃です。暗さが刻々と増す中で、まだ空には夕映えの残照が見えます。もし太陽がまだ地平線の上にあるなら、砂漠の山は真っ赤に燃えるはずです。まるで紅葉のように全山が真っ赤に染まる筈です。私はシナイ砂漠で真っ赤に染まった連山を抜けて旅したことがあります。ただ、この夕映えの明るさは太陽のそれでなく、キリストから来る光かも知れません。たとえ暗闇が来ようと誰も恐れることはないのです。キリストがおられ、その光が行く手を照らして下さるからです。

  私は、祈りの時このイコンを飾って、聖書を読み、イエスへの黙想を深めています。そして皆さんの名前をあげてお祈りをするのです。それは、人が住めない、どんなに荒れた人間環境の中でも、平和な心で人生が歩めるためです。皆さんの歩みが祝され、かぐわしい実が生まれるためです。

  すなわち、皆さんが「肉の業」でなく、キリストに従い、「霊の結ぶ実」を結んで歩いて頂きたいためです。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意…。

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  そして霊が実を結ぶところに、本当の自由があります。創造性が生まれる源はここにあります。

  「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意…」。これらによって命あふれる時、人は建設的なものを荒れた地でも創造していくことができるでしょう。

  キリストに導かれる愛は、試練や困難の中でも新しい道を開拓していくでしょう。信仰の喜びは、私的な喜びで完結しません。むしろ喜び故に、重荷や悲しみにある人を労わるでしょう。共に歩くでしょう。平和は、混乱の中に安らぎを与え、心を整えてまた果敢に新しい社会を作るために挑戦して行く力を与えます。

  私たちの心の内面に与えられる愛、喜び、平和…その意義は大きいのです。だが、それだけなのでしょうか。

  日本の科学技術は世界の最先端を行きます。それにも拘らず、何故世界をリードして地球環境を守る施策が遅れているのでしょう。不思議でなりません。

  風力発電のことは皆さんもご存知でしょう。今、風力発電は丘の上でなく、海上風力発電を建てる形が進んでいます。暫く前のイギリスの新聞で書かれていたことですが、イギリスは、世界最大の洋上風力発電の国になろうとしています。現在でも、30万戸の家庭の電力が風力発電でまかなえます。近い将来には、何と150万戸分をまかなう予定ですし、将来は全ての家庭の電力は洋上風力発電でまかなおうとしています。何と大きな夢を抱いて歩んでいるのでしょう。

  日本は風力発電、ましてや洋上風力発電の研究が格段に遅れています。原子力発電に頼み、それには莫大なお金はつぎ込みますが、風力発電には政府は研究費を僅かしか出さないからです。

  風力ですからは、火力発電のようにCO2を排出しません。原子力発電のような極めて危険なものでもありません。原発は、廃棄物処理という危険で、莫大なお金がかかる問題を子々孫々に押し付けて動いています。

  風力は自然エネルギーですから地球への、人間への愛と平和、優しさに満ちています。ヨーロッパ諸国は風力発電に力を注いでいますが、彼らはキリストに導かれているためでしょうか、こういう地球を守る生き方を世界に先立って創造的に創り出しているのです。

  愛、喜び、平和…。これらは内面的なものだけでなく、私たちの故郷である地球を守る社会的な視野、そして世界的・宇宙的な視野さえ与えます。そういう意味においても、キリストの自由は私たちの創造性が生まれる源です。

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  キリストよって働く所には、孤立や不毛の状態は現れません。むしろ人々の間に愛と平和の実を結ぶのです。人を結びつけて行くのです。分断をつくるのでなく、人の間の新しい関係の樹立へと向かいます。悪魔はディアボロスといいます。間を裂くという意味です。人と人との間を裂き、神と人との間を裂くのがディアボロスです。

  ですから今日の15節は、「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意していなさい」と勧めるのです。キリストにありながら、「互いにかみ合い、共食いしている」というケースがあるからです。立派な教会の指導者であっても、日々神に砕かれていなければそんなことが起ります。

  しかし、キリストに留まり、キリストの真理に生きる者は、平和を、和解と信頼を創りだして行くでしょう。

  パウロが語るのは自己中心の自由ではありません。ですから、「自由を、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」と語ります。キリストが授けて下さるのは愛する自由です。大胆に他者に仕える自由です。貧しい者たち、重荷を負う者たちを支えるために自分を与える自由です。キリストは、人を愛する創造的な力、その源を与えてくださるのです。

                          (完)

         2008年10月26日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、テゼ共同体で使われているイコン。実物はルーブルにあり、写真はルーブルのもので、厚さ4cmほどの板に描かれています。)