創造性の源 (上)


  
                                           ガラテヤ5章13-26節

                                 (1)
  イエスヨハネ福音書で、「私の言葉のうちにとどまるならば、あなた方は本当に私の弟子である。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする」と言われました。キリストに留まる時に私たちは真理を知るのです。この真理が私たちを解放し自由にするのです。今日の聖書にも、「あなた方は自由を得るために召されている」とありました。5章1節にも、「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです」とあります。

  イエスの福音の中心には自由があります。キリストの福音は私たちを解放する、解放の福音です。キリストの招きは、諦めや運命論への招きでは決してありません。前世の因縁を説いて、人生を諦めさせるものではありません。逆に、福音が語られる所には自由な爽やかな風が吹いています。人は諦めや決定論から解放され、神との関係において自分らしさを生き始めます。新しい希望の道が拓かれ、人間的に成長させられて行きます。キリストは私たちを縛る色んな縛りを解いて下さるのです。

  キリストの霊が私たちの上に降ると、重荷を持っていても、受身になることなく、それを建設的に用いていくことができるようになるでしょう。生まれつき目の見えない男の上に起った出来事のように、ハンディが返って用いられ、自分の殻から脱皮して行ったりします。聖霊は、隠れた自分を発見し、自分らしいあり方、本来の自分を確立させて下さるからです。

  人の気持ちを察するというのは大変いいことです。だが人に気に入られようとするあまり、人の目を気にし過ぎる。そのために生きるのが辛いという方が多くおられます。しかし、キリストに出会う時には、人の目から解き放たれ、自由にされ、神の前に自立して生きる人へ創り変えられるのです。

  パウロはこのガラテヤ書で、キリストが与えて下さる自由と、気ままな放縦な生活とを混同している人たちに書いています。彼らは、無原則な欲望に駆られた生き方を、キリストが与えて下さった自由と取り違えているのです。それで彼は、基本的で根本的な事柄を理解してもらおうと努力しています。

                                 (2)
  キリスト、またキリストの霊である聖霊は自由の源です。パウロはこの手紙でそう語ります。しかし、自由は決して自動販売機のように、自動的に与えられるものではありません。私たちは、私たちの中におられる聖霊に従って生きるために、選択をしなければなりません。決断が必要です。

  パウロはこのことを、「御霊に従って歩きなさい」という風に語ります。そうでなければ、「肉の欲望を満足させる」生き方になるというのです。それは「肉の望むところ」になり、「肉の業」を行ってしまうだろうと言うのです。現実の私たちは、このことがよく理解できます。

  と言っても、この表現は必ずしも意味がはっきりしませんが、神によらない生活、神との関係をもたない生活を指しています。肉の望むところのものに従うとは、神の愛、多様なものを一つに一致させる聖なる愛を拒絶した生活です。

  ですから19節で、「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他この類のもの」というのです。これらは分裂と対立、不和と争いに導くだけです。それは、神を排除したものだからです。

  言葉を変えて言えば、これらは自己本位です。己が腹を神とするもの、好き勝手に自分の腹に仕えることです。キリストから離れる時には、私たちはいつもそうなる可能性が濃厚に出てきます。誰も油断できません。

                                 (3)
  むろん、現実には自由は純粋な形ではどこにも存在しません。肉的な人と言っても、神様に造られた存在である限り、霊的な要素を留めていますし、霊の人も肉的なものをもっています。良い麦と毒麦の根が絡みついてそれは分け難いという譬えをイエスはしておられますが、私たちは誰も良いものと毒を併せ持っています。

  ただ、キリストの霊に導かれた者は、自分の中にある肉的なもの、罪の姿をよく知っているのではないでしょうか。信仰が深まると、自分の罪の深さをますます知らされます。信仰者とは罪の自覚が深められた人と言ってよいでしょう。むろんそれと共に、神の恵みの自覚も深められていますが。

  偉大な信仰者であったアウグスティヌスは、このような祈りをしています。「主よ、私の魂の家はとても狭いのです。どうか、広くして下さい……あなたがお入りになれるように。私の魂の家は荒れ果てています。どうか修理してください。私の魂の家はあなたの目に、どんなに醜く映ることでしょう。私は自分の魂の醜さを知っています。それを清めて下さるのは、主よ、あなたお一人です。隠れた罪から、私を清めてください。自分でも知らない罪から、あなたの僕を救って下さい」と祈ったのです。

  このような荒れ果て、醜い自分の罪の告白の中に、アウグスティヌスの信仰の深さも気高さもあります。

   (つづく)

         2008年10月26日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、モンバールの旧市街に沿って流れるブレン川。)