一羽の雀にも心をとめる神


    
    
                                            マタイ10章29-30節

                                 (1)
  イエス様は、今日の箇所で、「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と、おっしゃっています。

  1デナリオンは労働者1日分の賃金ですが、1アサリオンは1デナリオンの16分の1です。2羽の雀が1アサリオンというのですから、計算すると1羽300円ほどです。焼き鳥屋で雀を注文すると1つ300円から600円ほどです。お店で違いますが。焼き鳥屋の雀とイエス時代の値段とあまり差はないようですね。

  それはともかく、イエスは、誰も目に留めない、軽い存在である1羽の雀に至るまで、神のご支配の中にあるとおっしゃったのです。もしそうだとすれば、神様は私たち人間一人ひとりと共にあられるのはごく当然のことだと言っていいでしょうし、ましてや神様を求めている人たちや信じる皆さんと共にいて下さるのは明らかなことだと言うことができるでしょう。また、神のお許しがなければ、私たちの生きることも死ぬこともありえないということでもあるでしょう。

  今日の30節には「恐れるな」とあります。少し前の26節でもイエスは、「人々を恐れてはならない」と言っておられます。私たちが人を恐れるのは、世の人が見ているのと同じレベルのものを見ているからではないでしょうか。しかし、この世が大事にする宝でなく、天の父、神に目を上げると恐れるのが少なくなるのではないでしょうか。「体を殺しても、魂を殺すことのできないものどもを恐れるな。体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」 このような終末的な方が確かにおられることを知り、その方を恐れる時には、人を余り恐れなくなるでしょう。

                                 (2)
  教会にいると雀の囀(さえず)りもあまり聞くことがありませんが、皆さんのお家ではどうでしょうか。

  ある夕方、会社や役所帰りの人たちが疲れた姿で歩いていました。すると、電線にとまった雀たちが下を見ながら、小首をかしげたり、互いに頷(うなず)くようなしぐさをしながら、チュンチュンと囀っていました。

  私はしばらく立ち止まってそれを見ていました。すると、雀たちが、「チュン、チュン、どうしてだろう。どうしてなんだろう」と、囁き合っているように思えました。何をどう囁き合っているかと言いますと、「あんなに齷齪(あくせく)して、どうしてあんなにせかせかして、心配して生きているんだろう。神さまの許しがなければ、僕たちさえ地に落ちることがないのに、あの人たちは神様から特別な地位を与えられた万物の霊長だというのに、何故あんなに先のことまで思い煩っているんだろう。どうしてだろう。どうしてかしら。」そう囁(ささや)き合っているように思えました。

  電線に止まって下を見ながら、時々小首をかしげて囀っている雀たちの会話は、高く青く澄んだ今日の秋空のように、とても澄んだ会話に思えました。

  前の教会の時、私は朝にジョギングをしていました。今の季節、町をぬけて堤防の辺りを走っていると、むら雀が20羽ほど飛んで来て草の実をしばらく食べて、またどこかに群れて飛んで行きます。同じ時刻に走っていると、毎朝雀たちも大体同じ時刻に同じ所に飛んで来て、草の実を食べ、またどこかへ飛んで行きます。へえ!彼らも一日のスケジュールがあるんだって思いました。

  神様は天地を造って、3日目に、「地は草を芽生えさせよ。種をもつ草と、それぞれの種をもつ実をつける果樹を地に芽生えさせよ」と言われて、その様になったと創世記にございます。小鳥たちを養うために、神様が種をもつ草をお造りになっていたんだと、その時気づきました。ですから、その場所でむら雀に会うのが一つの楽しみになりました。

  ところが何日かした時、町の堤防管理をしている業者が、雀たちが朝食をしていた辺りの草をすっかり刈り取ってしまったんです。餌場を失ったむら雀はもう来ませんでした。寒い地域では冬に備えて体力をつけていなければ凍てつく北国の冬を越すことができません。草を刈った人たちは、むろん雀たちのことなど考えたことはなかったでしょう。私はとてもかわいそうになりました。

  でも雀たちのことです。人を責めたり、恨(うら)んだり、敵意を持ったりしません。ただ、むら雀はどこかの街の電線の上にとまって、「チュン、チュン、どうしてあんなに明日のことを思い煩うのでしょう。今日一日を十分生きれるだけでいいのではないかしら。一日の苦労はその日一日で十分でしょうに。明日のことは明日自身が思い煩うって、イエス様がおっしゃっているのに。」そう言って、小首をかしげて仲間と話し合っているかも知れないと思いました。

                                 (3)
  イエス様は今日の所を通して、大胆であれと言っておられるのではないでしょうか。どうして怯えているのかと言われるのです。1羽の雀にも目を留められる方がおられるのだから思い煩うな。彼らのようにこころ貧しく単純素朴でありなさい。富や地位を焦って求めるのでなく、あなたはあなたらしく、あなたの独自性を失わず神の前にとどまり、神の子として生きなさい。時代と共に移り変わる表面的な現象面に惑わされず、人間存在の根源的なものにこそ目を注いで生きなさい。

  また更に、自分、自分と言って自分を余りにも後生(ごしょう)大事に抱え込まないで、自分を手放し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛し、与えていきなさいと言われていると言ってもいいでしょう。

  誰しも自分を他者に与えようと思う時には惑います。とんでもない、こんな人にという思いも浮かぶかも知れません。しかし、自分を与えてそこから更に進んでいけば、やがて自分を与え切ってしまうことの中に喜びを見出す時が来るでしょう。親子関係でも、夫婦関係でも、また仕事のことでもそういうことがあります。不決断のままで、仕方なしに何かをしても喜びは湧きません。恐れに対して投げ出すのでなく、父なる神に、キリストに、聖霊に対して委ねて行くのです。そこに幸いがあります。

  「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」もう一度申します。一羽の雀に至るまで、神は愛し守っておられます。神を信頼し、あがめ、信じていきましょう。

  神を信頼し、愛し、委ねるとは、人に対する慈しみや愛を欠くことではありません。むしろ神に委ねる故に、困難の中にある人や貧しい人、不正義の犠牲になっている人の友になり、重荷を分かち合おうとするのです。神を愛すれば愛すほど、隣人を愛するために人々に近づいて行きます。友になってもらおうというのでなく、友になるのです。

  イエスは、「これらの最も小さい者の一人にしたのは私にしたのである」と言われました。こころ貧しく単純素朴であるとは、このようなイエスの言葉を単純素朴に信じて生活することではないでしょうか。

                                 (4)
  今日は礼拝時間を短くしました。礼拝後すぐ昼食をして、できれば正午前にバザーを再開しましょう。今日もお客さんが多いでしょう。殺気立った人々の中では、こちらも殺気立ちます。しかし、キリストの平和を持っていきましょう。笑顔と心の平和を差し出しましょう。バザーを通して、ここには平和があることを証しするのです。

  私たちが携わるのは、教会バザーです。物を売ることが最大の目的ではありません。笑顔と平和な心を差し出すこと、ここには平和があることを証しすることです。見苦しい姿には、寛大な態度が一番です。お客さんとのいい関係、そして私たち同士がいい関係を保っていきましょう。

                             (完)

       2008年10月19日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、田舎町モンバールの町役場。)