神の働きにあずかる (下)


    
                                           
                                         使徒言行録1章6-8節 
    
  (前回からつづく) 
  ノーベル平和賞が、フィンランドアハティサーリという人が受賞することになったそうです。G7のことがあって、その報道が片隅に追いやられました。新聞やテレビで紹介されないことを申しますと、この方は青年時代にYMCAで活躍していた人です。その後、小学校の先生をしていました。更にパキスタンでYMCAのスタッフの訓練に携わってもいました。そういう人が、やがて外務省に入り、フィンランドの大統領になり、それをわざわざ辞めて更に外国の紛争地に出かけて、インドネシアとかアイルランドコソボなどの紛争の調停に懸命に携わって来て、今、ノーベル平和賞受賞者になられました。

  考えて見てください。小学校の先生が、YMCAで働いていた青年が、やがて大統領になるなんて、日本ではとても考えられません。日本はそういうシステムになっていない。そこに柔軟を欠いた社会の片鱗を見る気がします。

  アハティサーリさんは写真では頑健そうに見えますが、リューマチを患っているそうです。アレはからだが曲がらず、とても痛い病気ですが、それでも外国の紛争の調停に出かけられる。また、写真では外見はよそよそしく見え、感情を表わさない人のように写っています。ところが非常に優れた対話能力のある、交渉能力を持つ方で、和解の仲介者、調停者として鉄の意志を持つ方のようです。しかも、魅力的なユーモアで人を惹きつける方のようです。紛争ですから、時には殺気立つような場面もあるわけです、でもまったく別の視点からユーモアをもって切り込んで行かれるようです。

  紛争地というのは地の果てです。家庭も紛争中は地の果てでしょうが、そこで(家庭のことじゃあありませんよ)、本当の紛争地で和解の使者として働いて来られたのです。

  「平和を作り出す人たちは幸いだ」というみ言葉を地で行く人だと思います。神のみ心に押し出されて、平和の主、復活の主の証人として神の歴史に参与しておられると思います。

  イザヤ書32章に、「遂に、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。その時、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」とあります。

  アハティサーリさんは、紛争地に公平と正義、平和と信頼をつくって来られた。神は人間を通して今も、創造のみ業を続けておられるのです。創世記に、神は人を造って地を治める者、園を潤し、園の世話をする者として置かれたとあります。

                                 (4)
  私たちはそのために、使徒言行録が語るように、「聖霊があなた方の上に降る」のを待たなければなりません。それがなければ、力を受けて神の喜ばしい愛を証しする証人となることは難しいでしょう。

  男性の中には、学説や理論を滔々と弁じたてたり、学識を誇示したりする人が多くいます。女性はどんなもので自分を誇示するのか知りませんが、自分を宣伝しても、世界に満ちあふれる神の麗しい愛を宣べ伝えることはできません。聖霊が降ると、キリストを通して神と自分との関係が出て来るのです。自分と、創造の神との関係が生まれます。

  今日はノーベル賞づくしで恐縮ですが、先週、3人の日本人がノーベル物理学賞を受賞することに決まりました。(ただ日本の報道と違い、世界の報道では、一人のアメリカ人と2人の日本人となっています。南部という方はほぼ40年前にアメリカの国籍を取ってすっかりアメリカ人になっています。日本は何とか日本国と繋げたい、日本の名誉にしたいという所があるようです。)

  人類は長年、宇宙や私たち人間はいったい何から出来ているのかという根源的な謎を問い続けて来ました。科学者たちは、宇宙は46億年前に生まれたとか、最近ではもっと遡って150億年前にビッグ・バーンというのが起って、そこからやがて世界は出来たという説を立てたりしています。科学は、外から見た歴史、宇宙の誕生を研究し、それがどのように生まれ、どのように発展し、進化して今日に至ったのか。人間は、何からどう進化し、元は何であったかというようなことを研究します。科学は、「どのように」ということ、Howということを扱っているわけです。

  しかし、聖書は創世記1章で天地創造の物語が語られますが、そこで語っているのは、世界はどのように造られたかでなく、なぜ生まれたのか、人間はなぜ存在するのか、何のために存在するのかというより深い実存的なことを語るのです。―因みに、キリスト教でもファンダメンタルなキリスト教は、天地は6日間でできたと言います。あれは逐語霊感説という18世紀的な考えなのです。アメリカのブッシュ大統領はそういう系統ですから、どうしてもイスラムと力の対決をしてしまいます。困ったものです。― 

  何故ということは、科学は取り扱いません。科学は、いかに存在したのかは語れても、なぜそうなったのか、何のためにそうなったかは、語ることはできません。しかし私たちは、人間とは何であるか。何で出来ているかでなく、私という存在は何なのか、私は生きる意味があるのかという謎を知りたいのです。キリストはその根源的な問いに答え、聖書はそれを語っています。

  創世記は、私たちは神の愛の対象として創造されたと語ります。そのことは、聖霊が降って初めて教えられることです。聖霊が降って初めて、自分の存在の根源的な意味が分かります。「聖霊が降る時、力を受け、地の果てに至るまで私の証人となる」とは、そういう人間存在の根源的な意味を知って、喜ばしいその証人になるということです。

  最後に、「とどまれ」とは、熟するまで待てということでしょう。田舎で育った人は、熟する前の柿をかじって吐き出した経験をもつ人も多いのではないでしょうか。ところがカラスは利口で、熟する時をよく知っています。人間も熟さないと、犬も食わない人になっちゃったりしますね。詩編は、急いで言葉を出そうとするな、と忠告しています。熟していないのに言葉を出すと、確かに失敗したり、要らぬことをしゃべったりします。とんでもない発言をしたりすることがあります。

  信仰も熟すことが大事です。十字架の意味、復活の意味が分かってくる。すると、なぜ生きるのか、なぜ私は存在するのかが分かり、神はなぜ世界をお造りになったのかが分かります。すると、自ずと心から溢れることを語るようになり、人間としての味、旨さも出てきます。

  その様な者として、地の果てまで遣わされるとき、歴史を今も創造し続けられる神のみ業に内側から参画することが許されるのです。外側からでなく、歴史の内側から神の働きに参与して、地の塩、世の光として用いられて行くし、心の渇いたこの世界、この大地を潤して行くのです。

         (完)

              2008年10月12日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、田舎町モンバールの Hotel de I'Ecu は17世紀のもの。グラスに入ったスープの味は絶品。)