人類の始めを越えて (上)


     
    
                                             ルカ24章50-53節
   
                                 (1)
  今日の聖書はルカ福音書の最後の箇所ですが、ここに、復活のイエスは弟子たちを「ベタニアの辺りまで連れて行き、手を挙げて祝福された」とありました。

  ベタニアは、イエスの一行がエリコの町からエルサレムに入城する前に、ロバの子を用意した村です。エルサレムから数キロ離れた、オリーブ山近くの一寒村です。その村の辺りで、復活のイエスは両手を挙げて弟子たちを祝福されたというのです。

  イエスはしばしば人々を祝福し、子どもに手を置いて祝福されました。私たちの教会でも子どもの祝福をしたり、この間も75歳以上の方々の祝福式がありました。しかし、イエスが「手を挙げて祝福された」箇所はここだけです。そして、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と記されています。

  ルカ福音書では、キリストの生涯はこの祝福の記事をもって終ります。そのことは、イエスの生涯全体は人間への祝福の生涯であったこと。イエスは人類の祝福のために来られたこと。飼葉桶で、襤褸に包まれて誕生した方の生涯が指し示しているのは、この祝福にあると語っているかのようです。

                                 (2)
  先週、日比谷にある出光美術館に出かけました。目的は別の所にあったのですが、そこで、「絵唐津丸十文茶碗」という茶の湯のお茶碗に出会いました。桃山時代、16世紀末から17世紀初めとありました。そしてこの絵葉書を買ってきました。帰って来てから、出光さんがお茶碗に目を開かされたのが、この茶碗であると知りました。

  私はこの方面のことは素人ですから、客観的な証拠など出せないのですが、ただこのお茶碗から多くのことを想像させられました。

  江戸時代以降の島津家の家紋も丸に十字ですが、生き生きしたリアリティがあるこの十文は、島津家の家紋とは程遠いものです。また、桃山時代の島津の紋にはまだ丸はありません。

  私の推理は間違っているかも知れませんが、これはキリシタンの使ったお茶碗だろうということです。戦国時代の武将か茶人が注文して作ったものでしょう。焼物師もキリシタンであったかも知れません。しかも深くキリシタン信仰に帰依した焼物師でしょう。

  どっしりとした質量感は信仰の重みと落ち着きを見事に表わしていて、深い味わいをかもし出していました。全体にスマートさというより、無骨さがあるのがこの茶碗の持ち味です。戦国武将の無骨さでありながら、無骨さの中に洗練された渋さと味わいがあります。

  この茶碗の横に現代の有名な陶芸家の模倣茶碗が並べられていましたが、その魂において全く異なります。現代のものには洗練された形のよさや手触りのよさがありますが、無骨さがなくなり、存在は軽く、元のと比べると軽薄にさえ私には思えました。

  それはいったい何故かと思いました。

  元の茶碗の方は、正面の十字架はイエスの十字架でしょうが、よく見るとただの十字架でなく、右手を差し出した生々しいイエスの姿に見えます。ただ時代が時代ですから、イエス像を描くことは危険です。いや十字架でさえありません。ただ「丸十文」という文(もん)であり、紋という形で十字架のイエスが厳しく自己抑制されて表現されています。しかし、抑制されたゆえに、この紋に限りない信仰の熱情が吹き込まれているように感じました。

  その信仰の熱情の余り、右手を差し出した十字になったと私は思いました。

  十字架のイエスを囲む丸はヒョコ歪んでいます。イエスを中心にと言っても、現実にイエスを取り囲んだ12弟子たちは真ん丸でなく、ヒョコ歪んでいるのが当たり前だからです。

  右手を差し出すこのイエスは、私にはガリラヤの浜辺に立って説教するイエスのように見えましたし、あるいは今日の聖書の、ベタニア村近くで両手を上げて祝福された復活のイエスに見えました。即ち、祝福し希望を与えるイエスです。

  茶室でこれを出された時の情景を考えますと、一期一会の茶席で、主(あるじ)は招いた客人にこの茶碗を差し出し、客人はこのイエスと一期一会で対するのです。普通は客は主(あるじ)と対しますが、この場合は主(あるじ)とでなく、主(しゅ)と対するのです。それは十字架のイエスであると共に、遥かかなたの約束のハライソの国、神の国に向かって指を向ける希望のイエスとの一期一会であり、また明日とも知れぬ戦乱の世を生きねばならぬ者に、両手を挙げて祝福するイエスです。

  それは何とありがたい、希望に満ちた祝福でしょう。イエスが、戦場で露と消える自分と一対一で向き合って下さった熱い喜びがこみ上げて来たでしょう。天が地に触れるような熱い喜びだったでしょう。

  一服の茶をいただき、目礼をもって茶席を立った客人は、にじり口から、心に溢れんばかりの熱い確かな希望を与えられて外の現実世界に出たのでなかったかと思いました。

  ( 茶碗の右上の縁に、イエスの血のような色の釉薬(ゆうやく)がべっとりと付いていました。これは釉薬でなく、普通は名品の茶碗のヒビや欠けた所を金、ゴールドで繕ったものですが、この茶碗に限り補修したのでなくイエスの血を表わすため元からこのデザインにしたと、私は解釈しました。このイエスの血の象徴も私たちに深い黙想へと導きます。茶碗のところどころにあばたがあるので、現実のイエス、肉体をもって地上を歩かれたナザレのイエスを一層ひしひしと感じさせられるのがこの茶碗でした。)

  間違った理解かも知れないことを申しましたが、2千年前の弟子たちも律法学者やファリサイ人たち、祭司長たちや長老たちなど、イエスを十字架につけた者たちの監視下という厳しい情況の中で、復活のイエスの祝福は彼らに生きる勇気、いや、歓喜を与えたであろうし、今日の私たちにも希望の光を与えるものだからです。

  先ほども申しましたが、先々週の礼拝の中で敬老祝福式をして、6人の方の額にオリーブ油を塗って祝福させて頂きました。キリストの祝福は生涯留まり続けます。洗礼の恵みも同じです。色んな出来事が起って、イエスの祝福が涸れてしまったかのように見えても、落胆するに及びません。祝福はなおその方に留まり続け、死に打ち勝って復活されたイエスご自身がその方と共におられ、その方の中にお住み下さっているのです。

            (つづく)

    2008年9月28日
    
                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ブルゴーニュ・ワインの町ボーヌのワイン店。)