世界は一つの家族 (下)


  
                                                                                      エフェソ2章14-22節
    
                                 (3)
  エフェソ書1章には、「教会はキリストの体」であるとあります。また別の箇所には、教会の頭はキリストであり、私たちはキリストの肢体であるとあります。また今日のところには、教会は、「使徒預言者という土台の上に建てられています」と20節にありますが、これらは初代教会の人たちのことです。そして、「その要石はキリスト・イエスご自身であり」と、記されています。

  教会に集まる私たちは、互いに家庭の背景も職業や人生の背景も違いますが、いかなる人も、キリストにあって正会員です。国籍が違っても、どこの国に住んでいても、みな同じ釜の飯を食う家族のようにキリストに属するメンバーです。一個の教会のメンバーの正会員のことを言っているのでなく、世界を包む唯一つの教会の正会員です。キリストにあって、世界の人は区別なくキリストに属するものです。

  キリストが要石(かなめいし)になって、異質な他者どうしが結び合わされ、組み合わされ、補い合い、一つの建物になり、聖なる神殿となり、神の住まいとなると、今日の後半で語られています。

  キリスト者たちが一致の中に生き、愛において生きるなら、教会は神によって建てられた建物に成長します。そして、社会の中で、神が存在されることの目に見える1つの徴(しるし)になるでしょう。

  日本では、9月に入ると夏が去り秋が来たという思いが強いでしょうか。残暑は残っても、子どもたちの学校が始まり、装いは秋を迎え、秋の果物が出始めます。しかし、フランスのテゼの丘には、9月になってもまだ沢山の若者たちが残っているようで、9月7日の日曜日の朝は、院長のブラザー・アロイスさんが、集まった人たちに黙想的な話をしていました。

  その最初に、テゼでよく歌われる「慈しみと愛のある所に、神は共におられる」という歌のことを話されました。

  この歌は、私が30年程前に始めてテゼで触れた時、新鮮な軽い驚きを抱きました。それと共に、果たしてそうだろうかという思いも持ちました。というのは、教会では、「神は愛である」と言われますが、「愛は神である」とは言われません。「神がおられる所に、愛がある」と言われますが、「愛のあるところに、神がおられる」と言われるようで、余り言われないと思います。

  実際、神ぬきの愛というのがあります。ヒューマニズムです。無神論的な愛もありますから、その場合、神はそこにおられないと思いたくなります。それから、愛は愛であっても、見せかけの愛や、まがい物の愛もあるでしょう。そんな所に、神が共におられると言えるでしょうか。

  しかし、アロイスさんは、若者を中心に数千人が集まっている日曜の朝の祈りの中で、「私たちが共に集まり、真実に他の人たちに心を開く時、神はそこにおられる」と話し、「そこには、神の国の一つの徴が映し出されている」というような意味のことを話されました。人の罪にも拘らず、微(かす)かな神の徴(しるし)があるということです。

  ただ、真実をもって、愛をもって心を開かなければならない。思い切って、実際に心を開いて行かなければならない、と言われました。

  アロイスさんは、現代社会に満ちている相互不信や敵意、また色々な国の歴史に残っている深い戦争の傷あとなどについて話すと共に、テゼに来る青年たちの中には、今も紛争中の国から来ている人たちもありますから、その様な現実の中でも、勇気をもって敵を愛し、平和を創り出し、和解する者になろうと呼びかけました。また、無視されたり、虐待されたりしている人たちを、勇気をもって訪ねて励まそうとも呼びかけ、こうした方法でキリストがそこにおられることを証しして行こうと語っていました。

  思い切って、心を開いて敵を愛そうとする。思い切って、敵意の壁をも乗り越えて行こうとする。そこに、どうして神がおられないことがあるでしょうか。一般社会であろうと、家庭であろうと、信仰者が一人もいない場所であろうと、キリストに委ねて、思い切って心を開く。そこに、まさに、憐れみ深い神は来て下さっています。慈しみと愛のある所で、神不在の場所はありません。

  要石(かなめいし)はキリストです。その要石によって、建物が組み合わされて成長する時、そこに神の国が微かに映し出されるのではないでしょうか。そこに人類の微かな望みが生まれます。

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  今日の箇所は、「世界は一つの神の家族」であるという広い展望を私たちに与えるものです。

  ただ、これは信仰の現実です。神からの贈り物です。それはまだ目に見えません。これは人間の全ての理性と相容れないことです。しかし、神の恵みによって、「世界は一つの神の家族」という現実が既に実現しているのです。

  文化の違いや経済力の違い、そして国境を越え、民族を越え、むろん過去の重い歴史の重荷も背負っていますが、たとえ背負っていても、キリスト者は、今なお引き裂かれている世界の中で、キリストにおいて一つであるということ、一致ということを力強く証しするのです。

  憎悪を持ち、分裂を作るのは易しいことです。しかし、キリスト者は分裂を作るのが得意であってはなりません。和解の主、平和のキリストを頭(かしら)として仰ぐからです。違いがあっても、一つであるという所に目を向け、一致の道を探り、平和を創り出す道を求めていく。それがキリストから私たちに与えられた、尊い、誉れある使命ではないでしょうか。

         (完)

             2008年9月21日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ブリュゴーニュ・ワインの中心の町、ボーヌにある慈愛の教会 Chapelle de la Charite。)