世界は一つの家族 (上)


    
                                           エフェソ2章14-22節

                                 (1)
  ユダヤ人たちは、その長い歴史の中で、自分たちは神の「契約の民」であるという独特な信仰を抱きました。それで、彼らは周りの国々や諸宗教との違いを大変強調しました。そして、自分たちは神によって選ばれた民、神の選民であるということを言いまして、世界の中で神の一つの徴であろうとしました。ユダヤ人たちが生後何日かすれば、割礼を施したのもその特殊性を明らかにするためでした。

  創世記12章を見ますと、本来、彼らは世界の諸国民を祝福するという使命のために選ばれたのですが、「選ばれた」というところに強調点が行きまして、世界を祝福するという本来の大切な使命が忘れ去られたのです。

  その結果、彼らは他の人たちから理解されないばかりか、敵対心を煽るようになったようです。それは残念なことですし、折角、神様に選ばれておきながら、こういう結末を迎えることがあるということを考えさせられて、私たち自身襟を正される思いをいたします。

                                 (2)
  しかし、キリスト教が誕生し教会の歴史が始まった時、パウロは、人々を分け隔てる壁は、キリストによってもはや存在しないと宣言しました。これは当時の世界には、驚くべき宣言でした。民族や人種、社会的階級の厚い壁が取り払われたわけで、当時の社会に大きな衝撃を与えました。

  今日の14節に、「実に、キリストは私たちの平和であります。2つのものを1つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました…」とあるのが、それです。

  敵意というのは中々なくなりません。家庭の中でも、職場においても、教会の中にさえ敵意や憎悪が入り込む場合があります。それは、そのままで置くと、一層増殖されることすらあります。だが、キリストにおいてその敵意という隔ての壁が取り壊されていると宣言したのです。

  キリストは、人から侮辱され、罵倒もされ、虐待も受けました。そんな中で、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」と、ペトロの第1の手紙は語っています。その様にして、イエスは、「十字架によって敵意を滅ぼす」という驚くべきことをして、新しい時代を始められました。キリストご自身が、ユダヤ人や異邦人など、全ての人に神との和解をもたらすことによって、平和を実現し、平和を打ち立てられたのです。

  人間が平和を打ち立てたのではありません。キリストにおいて既に平和が打ち立てられているのです。既に世界、人類はキリストにおいて同じ家族であるということです。今日の19節は、「あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、…神の家族であり」とある通りです。

  ですから、教会が将来的に進むべき方向性、また世界が歩む方向性ははっきりしています。それは平和を創り出すこと、平和の器になるということです。

  私たちの教会は、「平和集会」を時々開き、憲法問題や靖国問題や戦争の問題を取上げてきました。その会は、いつも聖フランシスの「平和の祈り」を唱えて始めています。この「平和集会」が向かっている方向も、イエスが始められた方向です。

  私たちは、外部の社会の様々な影響を受けますから、時には社会や人々に恐怖を感じたり、将来を思って保身的になったりして、そのために過剰に利潤追求に走ったりします。事故米やカビ米を社会に不正に流すというのは、井戸に毒を流すのと殆ど同じ犯罪です。昔なら、放火と同じく死罪にあたる重罪です。利潤追求社会はそこまで来ています。利潤追求を煽る人たちがいるからです。

  経済の器になることが、私たちの人生の第1のテーマではありません。むろん生きるためには、食べなければなりません。しかし、食べるために生きるのでなく、生きるために食べるのです。利潤追求でなく、平和の器として生き、愛の器となって生涯を人々のために過す人たち。また、そういう明日の担い手を育てる教育者たちに、高い社会的評価が与えられる国造りがなされなければならないのではないでしょうか。

  世界には、平和の担い手であろうとしている数知れないキリスト者がいます。彼らは、教会や一般社会の中で、内面的な苦悩を抱いたり人から苦しみを受けることを経験しながら、キリストを仰いで生きています。また、悪口や罵りなどは交わりを破壊するに過ぎないことを憂いて、それをどう克服すればいいのか静かに思い巡らしています。彼らはナイーブで、世間知らずでは決してありません。悪口を吐く人や頑なな態度をとる人を非難し、なじる事も出来ます。だが、彼らはそこへ己(おのれ)を向かうのを許さず、口を閉ざし、愛に向かって努力しています。そして、自分の考えを表わす時には、人を更に引き裂く溝を作らないように注意を払いつつ、キリストとの和解を受けた者として生き、人を励ますのです。ある所で、ブラザー・ロジェさんはそんなことを書いていました。

  地の塩、世の光とは、キリストに顔を向けて生きている、こういう人たちではないでしょうか。

  エフェソ書4章には、「人を造り上げるのに役立つ言葉を…語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません。…無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを、一切の悪意と一緒に捨て去りなさい。…あなた方は神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。…光の子として歩みなさい」とあります。社会を健全に建設していくのは、こういう信念をもって働く人たちではないでしょうか。

      (つづく)

             2008年9月21日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌのホスピスにある聖書とスコップを持つ聖人。)