老いに光あり(下)


  
                                          
                                          イザヤ書46章1-4節
    (前回からつづく)
  今日は、「老いに光あり」という題です。老いというと人生の晩年を指しますが、老いは老人にだけ当てはまりますが、晩年は老人だけではありません。30歳で亡くなっても晩年はあります。20歳でも晩年という言葉を使えるでしょうか。10歳の子に晩年とは余り言いませんが、しかし10歳が人生の最晩年になる子どももあります。私は今日の題で、ただ老いだけでなく、人生の最後にも光があると言いたいと思います。

  最近になって教会に来られた人は、今月の礼拝の最初に歌っている讃美歌533番の由来はご存じないかも知れません。「どんなときにも、どんなときにも、苦しみに負けず、くじけてはならない。イエス様の、イエス様の愛を信じて。どんなときでも、どんなときでも、幸せを望み、くじけてはならない。イエス様の、イエス様の愛があるから。」

  これは、たった7歳で亡くなった女の子が、病床で作った讃美歌の歌詞です。彼女は、骨に悪性のできものができ、骨肉腫という悪性腫瘍になりました。悪化すると大人でも我慢ができないほどの痛さがあるそうです。苦しくて、苦しくてたまらない。くじけそうになる中で、彼女は小さい体を励まして、イエス様を信じて、くじけないで行こう、くじけないで行こうと自分を励まして行ったのです。どんな時も、幸せを望み、くじけてはならない、くじけてはならないと自分に言い聞かせ、イエス様の愛があるからと信じて最期を迎えていったのです。

  7歳の晩年にも光あり、です。キリストの愛は小さい子の晩年にも、老人の晩年にも光を与えて下さるのです。人生の春夏秋冬、どの季節にいる人にも光を授けて下さるのです。

  詩編139篇に、「闇も、もはや闇とは言えない。夜も、昼のように光を放つ」とあります。死から復活されたキリストが、私たちに希望の光となって下さると、漆黒の闇も闇でなくなる。夜も光を放つでしょう。どんなに絶望的で、真っ暗な闇の中にも、復活のキリストの光りは届いて来ます。そこに光を放って、喜びを与えてくださるのです。

                                 (3)
  ヘルマン・ヘッセは、「若さを保つことや善をなすことは易しい。全ての卑劣なことから遠ざかっていることも。だが、心臓の鼓動が衰えても、なお微笑むこと、それは学ばれなくてはならない」と書いています。

  若さを保つこと。皆さんはそれに努めていらっしゃることでしょう。せいぜい努めてください。若さを保つことに努めなくなったらいけませんよ。でも、それだけじゃあ駄目だと言うんです。作家であり詩人であるヘッセは、いかにして人生をよく生きるかを語ろうとしています。

  皆さんにも重い現実がおありかも知れませんが、私にも重い現実があります。暢気(のんき)な顔をしていますが、神様に担って頂かなければ到底負い切れない現実です。信仰がなければ、へばってしまいそうな現実です。

  しかし、キリストによって私は、心臓の鼓動が衰えても、「なお微笑むこと」を学びました。いや、まだまだへばりそうな自分ですが、キリストが、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃる。このキリストがいて下さると思うと、心が楽になります。なお、ほほ笑んでいいんだと思います。キリストの平和をもって生きようと思います。私は、キリストの平和を心の深い所に現実に感じています。

  それだけでなく、第2コリントにある、「今や恵みの時、今こそ、救いの日」という言葉が胸に響くようになっています。これを思うと喜びが湧いてきます。

  「今や恵みの時」という「今」は、重い現実がのしかかって希望の光が消え去らんという「今」も含んでいます。その時も、恵みの時、救いの日だ。私は、そう思うようになりました。敢(あ)えてそう思うと、日々の祈りの中で、キリストとの交わりが現実に、本当にキリストとの交わりになって、そういう確信が与えられて来るのです。

  「敢えて」とは、心はまだそこまで行かないが敢えて、という意味です。

  「敢えて」一歩踏み出て、毎日を、キリストにある神の日として新しく迎えるのです。キリストとの交わりが確かになるに従い、私たちの心に平和が支配するようになります。私が平和を持つのではありません。キリストの平和が、私を大きく包んでくださるのです。

  キリストの平和が私たちの心を支配する時には、人生のどんな季節にも、そこに命かがやく歌を発見して歩むことができるでしょう。人生には、木漏れ日が美しい春と共に、日照りの夏、ほろ苦さを伴う秋、そして凍てつく冬があります。誰も側にいてくれる者がない冬の夜。その時も、心を励ます神の愛に目を注ぎ、それによって自分を励ましていく。喜びさえ見出していく。7歳の少女もそれをしたのです。

  それは、十字架につけられ、復活されたキリストが、「恐れるな。おびえるな。小さな群れよ」と呼びかけ、拓かれた道です。「闇も、もはや闇とは言えない。夜も、昼のように光を放つ」という道です。

  皆さんの中で、心の平和を抱き続けたいと願う人。喜びと愛と単純な信仰をもって生きたいと思う人たちは、心が冷えることがあっても、敢えてキリストの所に日々近づいて下さい。キリストが下さる言葉によって導きを与えられて、歩んでください。その言葉によって日々導かれるなら、時が立つうちに、私たちの内面性、自我は必ず鍛えられるでしょう。

  幻滅が私たちの心を支配すると、希望が消滅して行きますし、足取りが重くなり心が冷たく凍ってしまいます。

  心の平和は迎えようとすることもできますし、無視することもできます。しかし、色んな出来事で将来の道が見えにくくなる時、心の平和を持つことは、これまで以上に大事になります。

  「夕べになっても光がある」「老いに、晩年に光あり」「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われて来た。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなた達を造った。私が担い、背負い、救い出す。」

  この神によって、皆さんも、なお、ほほ笑むことを学んで行ってください。

          (完)

               2008年9月14日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、1448年に創立したボーヌのホスピスで。)