老いに光あり (上)


  
  
                                           イザヤ書46章1-4節

                                 (1)
  今日の最初の所に、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」とありました。ベルもネボもバビロニアの偶像の神です。ベルはパレスチナではバールの神として祀られた男の神です。ネボは女の神です。ベルとネボは、いつも同時に出てきますから、これは男女一対の繁栄、繁殖の神々です。

  男性のベルは戦(いくさ)の神、敵を征服し、侵略する神です。ネボの方は、灌漑(かんがい)をつかさどる農耕神です。チグリス、ユーフラテス川の流域ですから灌漑がとても大切です。その灌漑によって農地を肥沃に豊かにするというのがネボです。農耕神というのは、作物の豊穣(ほうじょう)と多産、繁栄の神です。

  1節の2行目に、「彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる」とありますが、バビロニアでは、新年を祝う祭りにこれらの偶像を担ぎまわって神々の行列をしたようです。インドではお祭りの時に偶像を象に負わせていますが、現在も動物が神々を運ぶという風習が残っています。

  先々週、この聖書箇所を選んだ時は知りませんでしたが、今、この大山近辺は秋祭りの時期らしいです。その他もそうでしょうか。金曜日の朝に、家にいますと、祭りのお囃子(はやし)が聞こえました。平日の午前なのに、よくまあのんびりお店や会社を休んで神輿(みこし)を担いでいるなあと思いました。よほど余裕のある、旦那衆とか若旦那衆に違いないと思いましたね。

  それにしても、前日の木曜日も午前に聞こえた筈だと思って、どんな人が神輿を担いでいるのか顔を見たくなって、疑問を抱えて暮らすより、疑問を晴らして気が晴れて人生は過ごす方がいいと思いまして大通りに出ました。

  すると、保育園の子どもたちが手に手に団扇(うちわ)を持って、はっぴを着、鉢巻を締めて遠ざかっていく所でした。余裕のある旦那衆ではなかったんです…。先頭に、紙で作った神輿を担いでいる子どもたちがいました。Aちゃんの通う松葉保育園かも知れません。

  それで、町内を一回りして角を曲がって帰ろうとすると、道端の家から私と同年輩の人が神輿を見に出て来て、それとほぼ同時に反対側の路地の奥の方からもう一人、やっぱり同年輩の人が出て来て、「保育園の子ども達らしいねえ。」「いや、幼稚園の園児だよ」とか言って立ち話していました。

  結局、ご町内から私を含め、3人の定年過ぎの野次馬が顔を出したのでした。

  保育園の神輿はご神体はありませんし、神社に奉納するわけではありませんが、この辺りのお祭りは氷川神社の祭りで、あそこはスサノオノミコトとクシイナダヒメノミコト、それに大国主命オオクニヌシノミコト)を祀っています。

  スサノオノミコトは男の神です。ヤマタノオロチを退治したという勇猛果敢な戦(いくさ)の神です。ベルと同じなんです。スサノオの妻がクシイナダヒメノミコト、女の神です。これは、バビロニアのネボ神に当たります。ですから、くしくも構成はバビロニアの一対の神々と同じです。普段はおとなしく家内安全や豊穣祈願をかなえる神ですが、一旦ことがありますと戦の神、敵軍を滅ぼす戦の神となって立ち現れて、ご町内の氏子に檄(げき)を飛ばす軍神になります。これに大国主命という豊かさの象徴である神も加わって、賑やかに3つの神々を担ついぎ廻って奉納するのが、氷川神社のお祭りです。

  お神輿はワッショイ、ワッショイと言って、神輿を揺らしますね。肩で揺らしたり、危ないですが高く両手で支え持って揺らしたり。アレは神の霊を揺り動かして活性化させるという意味を持っているんです。神の霊を活性化させるとは面白いですね。神に目覚めてもらって、目立って沢山働いてもらわなければならないと言うわけです。

  今、政治家達も5つの神輿を担いでワッショイ、ワッショイしています。政治と言うのは政(まつりごと)です。お祭りです。あれも自分たちの党を活性化させ、目立つようにして、その勢いで総選挙で勝とうという目論見です。しかし国民の目はどう見ているでしょうか。

  脱線しましたが、神が人間や獣に背負ってもらわなければならないというのは、本来おかしいことです。そこの所をイザヤは、1、2節で鋭く指摘しているわけです。ベルもネボもかがんだり、倒れたりする。それで動物に負われるが、金や銀で作った重量の重い偶像なので、それを負うと動物たちも共にかがみ込み、倒れ伏してしまう。そんな事がよくあったのでしょう。その重荷の下敷きになった獣や人間を、偶像は助け出せない。それに戦争に負ければ偶像の神自身が敵に捕らわれて行くではないかと、茶化しているのです。

  人間が神を作り、神を背負っているわけです。今日でも新しく神を作る人たちがいるようです。いつかテレビで、どこか山間の村で、空気の神とかいう神を発明して祀(まつ)っていました。大気汚染とかCO2による地球温暖化から守る神なんだそうです。一大ブームにして、村おこしをしようというのでしょう。

  色んなものが偽られますが、神も偽られて作られて商売にされている。人間とはいったい何者なんでしょうか。

                                 (2)
  それに対し、イザヤは聖書の神を対比します。「私に聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われて来た。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなた達を造った。私が担い、背負い、救い出す。」

  幼い日、私たちは誰しも母に負われ、父に担われて来ました。しかし老いの日まで誰も負ってくれる者はありません。だが、主なる神はあなたを背負う。白髪になるまで背負って行くというのです。

  アブラハムあるいはモーセから始まるイスラエルの何千年に及ぶ長い歴史が、人の一生に譬えられています。むろん神は、私たちの一生も、確実に担って下さる神でもあります。

  3節、4節の僅か2節の中に、日本語でははっきりしませんが、10回ほども「私」という言葉が繰り返して出てきます。4節だけでも、「私はあなた達の老いる日まで、白髪になるまで、私は背負って行こう。私はあなた達を造った。私が負い、私が背負い、私が救い出す。」6回も繰り返されます。

  それは、あなたの人生に責任を持つのは私、ヤーウェである。主なる神である。ヤーウェがあなたを造ったゆえに、どこまでもあなたに責任を持つ。私は歴史の神であり、人生の神である。「私が最後まで担い、私が最後まで背負い、私が最後にあなたを救い出す。」

  この所は、私たちの教会のBさんが一番お好きな箇所です。何度も通読されましたが、ここを読むとホッとするそうです。若い頃に一児を儲け、離婚し、やがて再婚。先年ご主人を看取り、今はご主人の息子さん夫婦の世話になっておられます。その紆余曲折の人生を、老いの日まで、白髪になるまで神が背負い、担い、救い出して下さったことの感謝を含むホッとでしょう。

  旧約聖書の最後から2つ目の書物にゼカリヤ書というのがありますが、その最後の章に、「夕べになっても光がある」という言葉が出てきます。イザヤ書のこの言葉が私たちにホッとした思いを与えるのは、人生の朝、昼、そして夕べになっても光があると聖書が語るからではないでしょうか。神が光となって、誕生以来私たちを担い、私たちを持ち運んで下さり、私たちを救い出して下さるという約束が、明確に語られているからです。

  今日は、「老いに光あり」という題です。老いというと人生の晩年を指しますが、老いは老人にだけ当てはまりますが、晩年は老人だけではありません。30歳で亡くなっても晩年はあります。20歳でも晩年と言う言葉を使えるでしょうか。10歳の子に晩年とは余り言いませんが、しかし10歳が人生の最晩年になる子どももあります。私は今日の題で、ただ老いだけでなく、人生の最後にも光があると言いたいと思います。
       (つづく)

               2008年9月14日

                                       板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌのホスピスの名品。)