何を恐れているのですか (下)


                                               
                                          ルカ12章29-34節
     
                                 (2)
  私たちは誰しも、安定した、安全な生活を求めます。それは本能的な欲求です。しかし、そのことがあるために貧しくなることを恐れ、安全な生き方に過度にしがみつき、そして、それが金にしがみつき、富裕であることに執着し、地位にこだわり、ひたすら儲けのみに向かいがちです。それがさっきもお話した日本社会に満ちている貪欲です。

  むろんイエスは、着る物、食べ物、飲み物、住む家、健康の大事さを分かっておられます。

  ただ、それらに引きずられて、人生で一番大切なものを欠いて生きてはならないのです。天にこそ宝を積み、神のみ心を求めて生きよ、と言われるのです。日本だけでありません。外国社会で起っている様々な問題も、その多くは人生の中心、主なる神を失って、欲に引きずられてやがて問題が起っています。

  聖書は、易しい言葉ですが根本的な問いを私たちに問いかけます。「あなたは、何に信頼するのですか。自分にとって一番重要なものは何ですか。」

  34節でイエスは、「私たちの富のある所に、私たちの心もある」と言われます。聖書では、心は人格の中枢であり、中心です。そこに知性も、感性も、意志も、決断力も、最も深い願望も、あらゆるものが宿っています。そして、心は自分の富や宝とくっつき、富のある所に心が宿ります。ですから、何を富とし、宝とするかは極めて重要です。

  そのため、イエスは私たちの心が富にすっかり支配されてしまわないように、この世の宝で占められてしまわないように、先ず、神の国に、神のご支配に心を向けよと言われるのです。

  イエスの弟子たちは、イエスに従って新しい生き方をしようとする人たちです。今日の所で、「あなた方の父」という言葉が2度繰返し出てきます。私たちに必要なものをご存知である父なる神に信頼するという、新しい生き方をする人たちです。

  このような信頼が父なる神になされるなら、衣食住の事柄は欠かせぬことであっても、それが人生の根源となる事柄でも、幸福の決定的な鍵でもなくなります。扇の要が押さえられると、他のものは整って来ます。イエスが言われるように、異邦人、即ち神を知らないことは、心を間違った所に向けているので、思い煩うのです。

                                 (3)
  それに対し、神への信頼は、弟子たちの人生と世界を見る目を大きく広げ、自由にもし、作り変えるのです。

  「持ち物を売り払って施しなさい」とありますが、前の訳は、「持ち物を売って施しなさい」でした。「売り払って」と言うと、全てのものを売り払え、一文無しになれと言われているように聞こえます。それは怖いことです。私はそれはできません。しかし、イエスは、「持ち物を売って施せ」と言われているのです。

  キリストは、私たちを傷つけるために来られたのではありません。牧師の中にはサディストもいますが、キリストはサディストではあられません。サディストは大体自分ではそれをしていません。キリストは私たちを愛し、ただ愛のみを与えるために来られました。キリストは、私たちの弱さを顧みることの出来ないような方ではありません。重すぎる重荷を負わせる方ではありません。

  「持ち物を売って貧しい人に施しなさい」とは、愛に生きよ、貧しい人と共にあれ、自分だけ得するような人であるな、の意味です。それで、少し前の21節では、「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者」のことが問題にされているのです。この所は13節から続く、「貪欲な、愚かなお金持ちのたとえ」として有名な箇所です。

  恐れず神を愛し、人を愛する、そこに焦点が合う時、私たちの人生自身にも焦点が合います。的外れの生き方でなくなり、生活の中心が明らかになり、人生の深い次元に目覚めて、その次元に集中していくでしょう。それは、「神の国を求める」ことと連動しています。

  それは、自己中心の生活から他者と共に生きる生活です。愛されることでなく、愛することへの転換です。分かち合ってもらう生活から、分かち合う生活です。乞食根性から、王的な生活です。イエス様はまことの祭司であり、預言者であり、王でした。愛の王でした。イエスこそ、「貧しくなることを恐れず、財産を保障しようとすることから自由な大胆さ」をもって生きられました。

  乞食根性でなく王的な生活と言っても、豪華なものを捧げよと言っているのではありません。イエス様が喜ばれたのは、貧しいやもめのレプタ2つを捧げる信仰です。でも精一杯捧げる信仰です。

  この頃、少し言葉の遅いAちゃんがお話し始めています。楽しいです。自分も楽しいのでしょうね。牧師館に来て、リビングで、何のためらいもなく「テビレ、テビレ」って言っています。オクムラさんの写真を見て「お車さんだ」と言ってにっこり笑います。帰りがけには、「さのなら」と言ってくれます。でも彼女は何ら気にしていません。純粋に楽しそうに、元気にそう言って帰って行きます。

  外国の人と話すとき、間違っちゃあならない、英作文の答案のように正しく話さなきゃならないと緊張していちゃあ、ガチガチになって話せません。今日は外国人の方々も来ておられますが、外国の方々も日本語を勉強する時はそうではないでしょうか。精一杯話して、真意が通じればいいのです。心が通じればいい。

  私たちの神様に捧げる捧げ物も、たとえ貧しくても精一杯であれば、神は喜ばれるのではないでしょうか。しかし、真実のこもった、身銭を切る信仰でなければ、どうして命ある信仰と言えるでしょう。

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  イエスはここで、パリサイ人や律法学者のように語られたのではありません。彼らは教えても、自分はそれを生きませんでした。自ら生きていないのに、語っているのです。ですから、今日の12章の1節でイエス様は、彼らに「注意しなさい。それは偽善だ」とおっしゃったのです。

  しかし、イエスは神様のために全てを捨てていかれました。あなたの栄光が輝き、あなたの御名が賛美されますように、この身をお用い下さいと言って、それを私たちの救いのために捧げて行かれました。

  もう一度言います。イエスはサディストではあられません。私たちに負い切れない重荷を負わせるために来られたのではありません。私たちを誰よりも深く愛されるから、私たちが真実な一生を悔いなく過すように、「ただ、神の国を求めよ。小さな群れよ、恐れるな」と、命じられたのです。

         (完)

            2008年9月7日

                                         板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌの老人ホームの中庭の聖家族。)