何を恐れているのですか (上)


    
    
                                          ルカ12章29-34節

                                 (序)
  イエスは言われます。「小さな群れよ。恐れるな。」

  置かれている状況によって違いますが、私たちは何を恐れているのでしょう。自分の小ささでしょうか。人との関係でしょうか。自分の能力のことでしょうか。年をとることでしょうか。体のことでしょうか。今後の健康でしょうか。恐れには色々あります。

  イエスの周りには病気の人や苦労する人、貧しい人などが大勢いました。彼らに、イエスは、「小さな群れよ。恐れるな」と言われました。私は、本当の意味で貧しさを恐れない人になりたいと思います。貧しさを恐れないというより、貧しさも喜ぶ人です。必要以上に背伸びをせず、今あることに、満ち足りた心で日々を過ごす人です。

  「貧しくなることを恐れず、財産を保障しようとすることから自由な大胆さ、それは、測り知れない力の源泉なのです。」テゼのブラザー・ロジェさんはそう書いています。貧しくなることを恐れず、それを乗り越えていく大胆さ、自由さ。そういう力の源泉を持ちたいと思います。

  貧しくなることを恐れず生きる心とは、カツカツの貧困生活によって心が侵され、心がガツガツすること意味しません。貧しさの中でも、全てのことを、豊かな想像力を働かせて、創造性をもって素朴に美しく整えていくことです。

  貧しさを美しさへと転化する創造的なクリエイティブな、心の澄んだ逞しい精神性です。「恐れるな」と言われるお方が側におられるのですから、透明な逞しい心はどこにあっても可能だと思います。

                                 (1)
  イエスは、今日の聖書の初めのところで、「あなた方も、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また思い煩うな」と言われました。

  何を食べ、何を飲むかと「考えてはならない」という言葉を、もし前後関係から切り離して、文字どおり、食べ物や飲み物のことを考えちゃあならないなんて取ってしまうなら、それは人間の生存にとって基本的なことを考えるなと言うことになり、余りに現実から遠い言葉になります。もしそうなら、イエスは世間知らずで、日夜、額に汗して働き、苦労している私たちの現実が分かっていないということになるでしょう。

  しかし、福音書を注意して読むなら、イエスは世間知らずでも幼稚でもないことが分かります。ルカ10章で、イエスは弟子たちに、「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れの中に小羊を送り込むようなものだ」と言われました。「狼の群れの中に小羊を」と言うのですから、イエス様は人間社会の怖さ、恐ろしさ、抜け目なさを熟知しておられるのです。

  ヨハネ福音書の「あなた方はこの世では苦難がある」というイエス様の言葉も、額に汗して働かなければならない現実、そこで起る衝突、小競り合い、経済的苦難、人間関係の苦労などをよく知っておられることを示しています。

  このように、イエス様は衣食住や健康のことを「一切考えるな」と言われるのでなく、それらのことで齷齪(あくせく)するなと言われるのです。齷齪するなということと、一切考えるなということは違いますよね。現実を見るなと言うのでなく、現実を知りつつ本質的なものに目を向けよ。人生の深い次元を発見しなさい。表面的な物質的な価値に留まっていてはなりませんというのであって、何に人生の中心を置くべきかを語っておられるのです。その様な流れの中で、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とおっしゃるのです。

  現実社会をしぶとく生き抜くために、神の国を中心に据えなさい。神の御心を中心に考えなさい。その上に立って現実生活を逞しく生きなさい、ということです。この中心が押さえられているなら、「これらのもの」、暮らしに必要な衣食住のことはすべて添えて与えられるということです。

  目先の得になることばかりを考えて商売していては、お客さんは離れるのではないでしょうか。あそこは儲けばっかり考えている、時にこすいこともする。そんなそぶりが少しでも見えたら、お客さんは寄り付きません。

  ある時、魚屋で寿司を買いました。小母さんが、「お箸をつけましょうか」と言うから、「家に帰って食べますのでいりません。その代わり生姜を余分につけて下さい」と言ったら、「生姜はパックの中に入っています」と言って、私をキュッと睨(にら)むんです。店がはやっているためか、態度が大きいなあ、世知辛いなあ、と一瞬思いました。すると、生姜の小さい袋のことで、そこには来たくなくなったんです。大人気ない牧師ですね。

  でも、もしお客のことを考えて、「分かりました。今日は張り込んでおきましょう」位のことを明るく言ってくれると、誰でも気持ちがいいし、牧師も気持ちがいいし、また来ようという事になるでしょう。お客は、大事にされていると思うし、この店は金儲けのことばかり考えていないので、安心して来れるんじゃあないですか。

  「ただ、神の国を求めなさい。」

  それを本気で考えていったら、ごまかしなどできません。毒の入っているお米を、入っていないと偽って売るとかは絶対できないです。何十万円か何百万円か知りませんが、お金をもらって教員試験に合格させようなんて思いません。公平、公正にする筈です。教育は本来人間教育です。その県の中枢部にいる教育者がこうで、人間教育はどうしてできるでしょうか。

  「ただ、神の国を求めなさい」と言われるのです。

  そこに人生の中心を置けば、不正に対しては否を言ったり、否を言える人になるでしょう。ただ、否ばっかりいう人がいますが、むろん、否ばっかり言っていちゃあ人とのいい関係は成立しません。「あなた方は地の塩である」とは、そういう意味ではありません。共感したり、賛成したりすることが何よりも大事です。それでも、否の時は否を言う。それは相手の人も結局は救います。その様な態度こそ社会を堅実にし、信頼を得て、結局は繁栄をもたらします。

  「ただ、神の国を求めよ。」

  そこから世に最も必要な倫理、生き方が出てきます。日本に今一番必要なのは、先ず神の国、神の義を求める生き方だと言っても過言ではありません。「御国を来たらせ給え。御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」という主の祈りは、今日本で一番必要な現実的な祈りです。

      (つづく)

             2008年9月7日

                                         板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌのホテルの中庭。)