夜明けのキリスト (下)


                                               
                                           ヨハネ20章11-18節
    
                                 (3)
  そのことを暗示するのが、「私にすがりつくのは、よしなさい」というイエスの言葉です。マリアのこれまでのあり方は、一種のすがりつく生き方です。彼女の愛はまだ人間的な愛です。15節に、「婦人よ」とあります。イエスはマリアをよく知っているのにあえて「婦人よ」と言われた所にも、彼女の人間的な愛を乗り越えて欲しいという思いがあります。愛するゆえに、マリアの信仰の成長を願ってこう言われたのです。だがマリアは、それがイエスと気づかないので、次に「マリア」と名を呼ばれたのです。

  彼女は今、「イエスを所有する」、持つという欲求を捨てねばなりません。イエスは、持つべき方でなく、従うべきお方です。信じ、仰ぐべきお方です。ましてや独り占めにすることはできません。自分のためのキリストから、キリストのための自分に飛躍しなければなりません。私たちの信仰は、自分の益になるから信じるという所から、一歩飛躍する必要があります。

  言葉を変えて言えば、地上のイエスと接することから、復活のキリスト、神なるキリストと接することを求められたのです。それは、これ迄のように外側から触わるあり方でなく、私たちの内側で出会われるあり方です。私たちの内にお住み下さるキリストとの出会いです。

  次に、復活のキリストはマリアに、「私の弟子たちの所へ行け」と言われたとあります。復活のキリストは、私たちを他の弟子たちと共に生きることへと向かわされます。「私の主」であるだけでなく、「私たちの主」を証しする人たちの間で、教会という共同体の間で生きるように遣わされるのです。信仰は、この群れの中で励まされ、この群れの中で育てられ、この群れの交わりの中で創り変えられ、成長もします。信仰の兄弟を愛する中で、愛を学びます。他者と共に生きる時に、キリストの身近にいるのです。

  別な角度から「すがりつくな」とおっしゃったことを取上げますと、私たちのプロテスタント教会は、宗教改革の伝統を引き継いでいます。その改革の伝統を引き継ぐとは、その伝統に固執して何も変えない、即ちすがりつくことではありません。そうではなくて、宗教改革の伝統を受け継ぐ教会というのは、常に自ら改革され続ける教会のことです。すがりつくのでなく、キリストに導かれて改革され続ける、永久革命という言葉がありますが、永久に改革され続ける、それが宗教改革を今日なお生き生きと受け継ぐことです。

  イエスは、ルカ福音書13章で、「私は今日も明日も、その次の日も…進まねばならない」と言われました。私たちは、前進されるキリストに導かれて進むのです。教会もそうですし、個人もそうです。

  オリンピックの素晴らしさは欧米人だけでなく、不思議とアフリカや南米やアジア人も活躍の出番があることです。先ほど、礼拝が始まる直前にマラソンの1着がゴールインしました。1着ケニア、2着モロッコ、3着エチオピア。アフリカ勢です。体操や野球では見慣れない国々、顔ぶれです。陸上5000mで、松宮選手の左の靴が途中で脱げて、9万の観衆の中を片足は靴のないまま完走しました。最下位で、かなり遅れてただ一人ゴールインしました。恥ずかしかったと思います。でも、ビリになったのを、単純に世界の実力にまだ届きませんと語って、靴のせいにしませんでした。率直で、すがすがしく思いました。

  信仰生活は、余りコチコチに固く考える必要はありません。また、頭でっかちになるのでなく、幼子のシンプルさが大切です。ペトロのように失敗を犯す間の抜けた所を持つ人もいていいのです。神について、キリストについて、福音について、知識の重い鎧(よろい)を無理に着こむ必要もありません。そうでなく、自分が理解した僅かな福音をためらわず現実に生きることです。すると復活の主が実際に喜ばしい方となって導いてくださるのです。

  信仰の歩みを貧しく、慎ましく始めましょう。イエス様の前です。人間的に大きく見せようなんて事もいりません。福音について理解した僅かなものを生きればいいのです。僅かなものを持って喜びに生きている方が、多くのものを持って難しい顔をして生きているよりも、キリストの福音に近い気がします。

  子ども達は、大人がもう目に留めなくなった小さな宝物を発見して、嬉しそうに嬉々として報告しに来ることがあります。今、自分が発見した僅かのものを喜ぶ。感謝する。それを生きる。宗教改革者のルターなどには、そういう幼子のような信仰が生き生きしていました。

  パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになった、異邦人には異邦人のようになった、弱い人には弱い人のようになった、全ての人には全ての人になった。福音のためなら、私はどんなことでもする。それは、私が福音に与るためです」と語っています。これはすごいことです。復活のキリストとの関係で生きるとは、あらゆる形の尊大さや冷淡さを捨て、あらゆる人に何とか希望を与えようとすること、愛に生きて、キリストからの手紙になろうとすることです。

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  ケンブリッジにいた頃、マリアでなく、マリーという女性が同じ研修所にいました。50歳ほどの独身の学生で、活動的な面白い人でした。靴が大嫌いで、家の中ではどこでもはだしでした。キリスト教教育主事の勉強をこの研修所とケンブリッジ大学でしていました。また、毎週1、2度ホームレスのお世話に出かけて、11時過ぎに帰って来ました。

  彼女が、卒業してロンドンに帰り、前に務めていた大学の出版社に再就職して、今度は週1回ロンドンのホームレスのお世話をして、テーブルを拭いたり、お皿を洗ったり、ホームレスの人たちとおしゃべりをしたりするボランティアをしたのですが、3年間学んだことをどうしても生かしたいので、900床ある大病院のチャプレンに頼み込んで、入院者達のカウンセラーのボランティアの道をその病院で開拓しました。そんなボランティアはないのですが勇敢に開拓したのです。大きなチャレンジだったと思います。

  彼女はカトリックです。シスターではありません。普通の信徒の方です。彼女は、自分は人の言葉を忍耐して聴くのが一番苦手だ、人を愛するのは難しいと言いながら、何とかしてキリストの手紙になりたいと考えているのです。2年経つのですが、今もアップアップしながらだと書いて、患者の病床に行って忍耐強く耳を傾けているそうです。即座の祈りが下手なので、痛みや悲しみや恐怖を感じている患者達の前で祈るのに不安があるそうです。しかし、下手であっても神様からそうなるように呼ばれているので、この道に挑戦して進んでいると書いておられました。

  下手であっても真心があればいい。すると真心のこもった手紙になれるでしょう。

  キリストの手紙になりたい。あらゆる尊大さや冷淡さを捨てて、愛をもって人々に希望の福音を伝えたい。復活のキリストと出会ったマリアは、弟子たちの所に遣わされましたが、その派遣は弟子たちだけでなく、その後、弟子たちを越えて他の人たちにも、彼女はその後一生涯、復活のキリストと出会って「ラボニ」と叫んだことを証しする事になったのではないでしょうか。

  「あの時どうしてイエスが分からなかったのでしょうね。私は、地上のイエスにすがりつこうとしていたのね。夜明けに、復活のキリストに出合って、初めて本当の信仰が分かり出したのね。それは、私の信仰の夜明けになりました」というふうに、です。
  
  
  久し振りに、宿題をお出しします。答えはそれぞれ違います。一週間考えて見てください。
1)神様が、私たちの近くにおられる事に、また私たちのために行っておられる事に気づくのを妨げているのは何でしょうか。それぞれ違うでしょう。自分にとっては、妨げているのは何でしょうか。
2)キリストが自分の名を呼ばれているのを知っているでしょうか。神様の声と、他の非常に沢山の声の違いはどこにあるでしょうか。
3)思いがけない喜びを伝えるために、自分は誰の所に行くことができるでしょうか。

        (完)

      2008年8月24日
                                        板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌのセントラル・ホテルの窓から。)