夜明けのキリスト (上)


    
                                            ヨハネ20章11-18節

                                 (1)
  イエスの復活を誰も見た者はありません。あったのは空の墓だけです。では、イエスの復活は何によって分かるのでしょうか。それは、ただ復活のイエスと出会った人たちによってだけ、何よりも彼らの中に起った明らかな変化によってだけ知ることができます。

  今日の聖書にある、復活のイエスと出会ったマグダラのマリアに起った変化もその1つです。

  さて、マグダラのマリアは、ヨハネ福音書11章では、姉のマルタ、弟のラザロと共に、イエスから深く愛された兄弟姉妹です。それで、中でもマリアは、できるだけイエスの近くにいて、イエスが話される神の国の福音について熱心に耳を傾けた女性です。彼女はまた、イエスの足に高価なナルドの香油を塗って、自分の髪の毛でその足をぬぐった女性と同一人物だとすれば、彼女はイエスから罪を赦されて初めて神の限りなく深い真実な愛を知り、信仰の喜びを得た女性です。彼女は力を尽くしてイエスを愛し、仕えようとしました。

  ところが今、イエスが十字架で死に、その喜びは潰(つい)え去って絶望の中に陥りました。そして、無駄なことですが、生前のイエスの思い出の幾つかだけでも残して置きたいと願ったのです。今日なら、デジカメやビデオでも何かを残したかも知れません。

  彼女は中でも、お墓に葬られたイエスの遺体を最も確かな よすが にしようとしました。ところが、20章の初めにある通り、朝早くイエスの遺体に香油を塗ろうと墓に行って見ると、遺体がなくなり、墓の入り口の大きな岩が転がされて墓は空になっていました。最後の拠り所もなくなったのです。

  途方にくれて墓の外で泣いている彼女に、2人の天使が「なぜ泣いているのか」と尋ねた時、彼女は「私の主が、取り去られました」と答えたとあります。彼女にとっては、今、イエスは「私たちの主」でなく、「私の主」です。イエスは、私がこれまで持っていたのに、今、私の手から無くなってしまったと言いたげです。「私の主が取り去られました」という言い方に、彼女の深刻な悲しみと共にイエスへの彼女の関わり方が率直に表わされています。

  これは、自然災害や病気などで身近な者を急に亡くした人たちの悲しみを思い出させます。

  先日、一枚の写真を見て脳裏から離れませんでした。8月8日に北京オリンピックが、世界史上最も華麗なフェスティバルと言われるほどの開会式をもって始まって、間もなく報道された写真でした。80歳程の痩せ細ったお婆さんが、瓦礫の前で地面に横向きに倒れて、口を大きく開き、手は空中をかきむしるようにして悲鳴を上げていました。悲鳴が聞こえて来るような写真でした。ロシア軍が、グルジアを砲撃して起った突然の惨劇です。恐らく家族も家も一挙に失ったのでしょう。上品そうな、細身のその老婦人は、地面に倒れて絶望の叫び声をあげていて、憐れでなりませんでした。戦争は決してしてはならないという思いを強くしました。

                                 (2)
  マグダラのマリアの姿も、人間的にはとても可哀想です。姉に叱られてもイエスの足元でじっとその話に食い入るように聞き入り、主を愛して、その教えに従って生きようと望みを抱いていた矢先に、イエスの死によって生きる意味、人生の心棒を失ったばかりか、今、亡骸(なきがら)もなくなり、墓は空になっていたのですから、彼女は魂の抜け殻のようになったのも当然です。

  今日の15節に、復活のイエスが、最初にマリアに声を掛けられた時、園丁だと思って、「あの方をどこに置いたのか教えてください。私が引き取ります」と言ったのも、容易に頷けます。

  今日の聖書が、先ずその前半で語ろうとしていることは、彼女は悲しみの余り、回りで起こっている新しい現実が見えない、見ようとしないということです。人間は、誘惑や欲望に心を奪われている時も周りがよく見えませんが、悲しみに心を奪われる時も現実が分からなくなります。

  しかし、復活のイエスが「マリア」と呼びかけた時、夢から覚めたようにイエスに気づいたのです。マリアは振り向いて、「ラボニ」、先生と言ったとあります。

  この所に「振り向く」という言葉が2度出て来ました。14節と16節です。この言葉は、ヘブライ的な表現では心の転換、回心をさす言葉です。しかし一度目はまだ振り向いただけで心の転換まで至りません。だがもう一度振り向いた時、彼女の視点が変えられて行きました。

  「ラボニ」という言葉は、当時のイエスや弟子たちが実際に使っていたアラム語ですが、そのままアラム語を書き留められたのは、マリアの「ラボニ」は後々まで書き留められるに値する、信仰の象徴的な言葉だと考えたからでしょう。

  彼女は、復活のイエスに出会い、喜びの余り「ラボニ」と叫んで、その喜びに促されて一歩大きく前進したからです。この新しい一歩は、これまでのイエスとの関係のコピーではありません。同じ繰返しの一歩ではありません。夜明けのキリストとの出会いは、彼女の生き方に新しい夜明けをもたらしました。そして全ての人たちにとって、復活のイエスとの出会いは、新しい人生の夜明けをもたらすものです。

           (つづく)

      2008年8月24日
                                        板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、1448年に建ったボーヌのホスピスの宝物館の名品の1つ。)