放蕩息子と父 (下)


                                             
                                          ルカ15章11-32節 

                                 (3)
  幾つかの荷を比較して、これは軽い、向うは重いとキリストは言われるのではありません。キリストの荷はそんなものではありません。

  私たちは荷を負う時、負うことで救いを見出すように担わなければなりません。荷を負いながら、救いを見出そうとするのです。すると、私たちの弱さの中でもキリストの恵みが現われ、その荷を担うことに意味が出てきます。反対に、そのくびきを下に降ろせば、荷は一段と重い荷になってしまいます。

  放蕩(ほうとう)息子の父親が大変歳を取っていたとして、息子の首を抱いて、もたれかかったとしても、息子には重荷にはならなかったでしょう。むしろ息子にとって、父親は名誉となったでしょう。ここまで落ちぶれ果てた自分を、しっかりと抱きしめてくれたことを感謝し、光栄に思い、喜んだでしょう。そして父親を決して重荷には思わなかったでしょう。

  放蕩息子の今後を支えるのは、「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」という父の言葉でしょう。ここに甦りの信仰、希望の福音があります。

  キリストとの関係においてもそうです。自分が信じて担っているキリストが、実は自分を担って下さっているのでなければ、誰もキリストを持ち運ぶことも、信じ続けることもできません。誰がいったい、罪に満ちた者が、自分の力で聖なるキリストを持ち運ぶことができるでしょうか。キリストが担って下さるから、聖なるお方を担えるのであり、仕えうるのです。

  「白夜の時を越えて」という映画があるそうです。一度見たいと思っています。これは先ほどのクリストフォロスを題材にした映画です。この映画は、足手まといになる者などは捨てて生きようとする者と、そういう者の重荷も負って共に歩もうとする者を描き分けながら、愛とは何か、自由とは何かを問っているようです。隣人と重荷を負って歩むことによって、人は強くされるというメッセージです。クリストフォロスは、全世界の人々の罪を負ったキリストを負いました。このことが彼の生涯を強くしました。キリストを負うことで、彼は迫害にも耐え抜く強い力を発揮して行くのです。

  キリストのくびきを負う時、「あなたがたは安らぎが得られる」と、イエスが言われるのは本当のことです。

  詩編87篇は、「私の源はすべてあなたの中にある」と言っています。これはすごいことだと思います。私たちの存在の根本を喝破した言葉です。私たちのこの源が、私たちの平和を創り出す源泉です。争いや戦いの源泉ではありません。「汝の敵を愛せよ。迫害する者のために祈れ。」その力を生み出す唯一の源泉はここにあります。どんなことがあっても愛し、和解を創り出す力の源泉です。それは今日の初めに申し上げたこととつながります。今日の時代に、最も必要なのはその源泉です。

                                 (4)
  先々週、余りの暑さに東京を逃げ出して長野の車山高原という所に行って来ました。八ヶ岳の西に広がる高原でした。

  そこに高層湿原というのがあって周りを歩きました。それは何千万年も前から泥炭層が何メートルも積もってできた湿地帯です。1メートルの泥炭が積もるのに1千年かかるそうです。驚くべき時の経過です。この泥炭層を調べると、遥か鹿児島の喜界が島が大昔に噴火した時飛んできた火山灰の痕跡があるそうです。私はそれらを知って、神の創造の御業の偉大さ、永遠性、その神秘に心打たれました。

  野生の草花が高原一帯に何万本と無数に咲き乱れていて、丘を越えるとまた何万本となく咲いている、言葉で表現できないほど美しい景色でした。しかし、この高原に人が入ってからそんなに遠くはない筈です。せいぜい五百年か、一千年前でしょう。その前も何千年、何万年にわたって毎年夏になると、人間が見ていないにも拘らず、今と変わらず一面に無数の高山植物の草花が咲き乱れて来たのです。神の創造の秘義は何と奥ゆかしく、素晴らしいのでしょうか。

  人が見ているとか見ていないとか、役に立つとか立たないとか、利益があるとか、便利であるとか、有能だからとか、トップとかゴールド・メダルを何個とか。そんな人間が作った価値観を遥かに超えて、神は草花を作り人間も創られたのでないでしょうか。彼らは、神様が置かれた所から動かず、神を精一杯ほめたたえ、神に向かって何千年間も咲いて来たのです。

  大自然の偉大さは、そういう人知れぬ所でなされる、個々の営みの集積されたものの中にあります。そこに、神が私たちに示される動かぬ確かさのようなものがあります。

  そして、キリストの平和は私たちの存在の源泉に、動かぬ確かさをもって存在するのです。

  放蕩息子の父親とは、私たちの存在の源である父なる神です。このお方から離れては、私たちの命は徐々に涸れていきます。放蕩息子は私たちです。人間はすべて問題を抱え、悩みを抱えている存在です。だが、父なる神は私たちをいつも大きくみ腕を開いて迎えようと待っていて下さるのです。

            (完)

        2008年8月17日

                                         板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌのセントラル・ホテルのレストランは16世紀の建物。味はこの上なく極上。むろんブルゴーニュ・ワインの中心地のワインは最高。写真は、目下準備中。)