地の塩、世の光 (下)


                                                                                         マタイ5章13-16節
                                     
                                 (2)
  後になって、聖書にもうひとつの都市が登場します。それは平和を意味するエルサレムです。暫く前にエルサレムについてはお話しました。これは、人間が強大になることによって築いた町でなく、神の約束によって築かれた町です。エルサレムが平和の町として、神によって地上に存在するようになったということは、信仰生活は社会の現実から逃避することではないということを語っています。信仰は逃避でなく、神に導かれ、正義と連帯をもって、共に現実社会の中で生きる新しい道を求めていくということです。

  と言っても、自動的に、オートマティックにそうなるのではありません。エルサレムに住む人たちが主の道に従わないなら、エルサレムでさえも神の使命にふさわしくなくなるでしょう。イザヤ1章にあるように、神によって建てられたエルサレムが神に背いて不正義を働いているなら、神に愛されて愛らしかった「シオンの娘」が、遊女にも、売春婦同様にもなってしまいます。そしてエルサレムは実際にその様になりました。町は破壊され、廃墟にさえなりました。

  しかし、その様な社会の中にあっても信仰者たちは、やがて来るべき正義の王、救い主、メシアを求め続けたのです。その王は神によって地上に送られる政治的王です。人間の罪と、都市が生み出す罪や汚れを取り除き、平和を来たらす王です。

  イエスの弟子たちは、この平和の王を彼らの主イエスの姿とダブらせました。ところが、ヘブル13章を見ますと、イエスは人々に拒まれて町の外に、門の外に捨てられた方であり、どんな王国もうち建てられませんでした。イエスは政治的王ではなかったのです。支配する王でなく、人々に仕える、僕としての王として来られたのです。

  第Ⅰペトロ2章にあるように、現実社会は、イエスとイエスに従う者たちの生き方に無関心であり、時には敵対的です。ある者たちは見世物にされ、ライオンと闘わされ、ノコギリでひき殺されました。ですから現実社会の中にあって、弟子たちは「宿り人であり外国人」であると言われます。しかし、天に国籍を持っているのです。ですから、イエスに従う者たちは防御的ではありません。ましてや攻撃的ではありません。「恐れるな、小さい群れよ。私は既にこの世に勝っている」と、語りかける方がいてくださるからです。

  第Ⅰペトロは更に、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心にかなうことです。…悪に悪を、侮辱に侮辱をもって報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐために、あなた方は召されたのです」と励ましています。

  ですから、力ある者たちがどんなに自己正当化しても、それに欺かれたり惑わされたりすることなく、神が置かれた場所において、隣人を愛し、神を信じて社会に貢献しようとします。すなわち、「地の塩、世の光」であろうとします。

  人間存在の出発点、その源と共に目標について知ろうとしない社会です。しかし、イエスは弟子たちに具体的な生き方を指し示されるのです。それは、信仰者たちが、この世に対して拒否的なあり方に満足するのでなく、遠くの人や近くの人に愛をもって隣人となり、「地の塩、世の光」となる生き方です。今日の聖書は、イエスによって語られた世にあっての行き方を、「地の塩、世の光」の生き方として指し示します。

                                 (3)
  塩が、「地の塩」として良い働きをするためには、ただ一点、塩味を失わないことが大事です。塩味を失えば、命を失ったも同然です。イエスがおっしゃったように、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

  私たちが「地の塩」として生きるには、神との、イエスとの関係を失わないこと、神の言葉を聞き続けるのをやめないこと、福音の価値に生かされることです。神との生きた交わりを失ったら、キリスト者独自の味をなくして、この世に埋没してしまうでしょうし、自分を失ってしまうでしょう。

  地の塩は、地の中に溶け、沁み込んでこそ、地に味つけしうるものです。時には自らの姿も形もなくし、ただキリストの塩味は持ちつつ、相手の中に潜り込む。それが、あなた方は地の塩であるといわれる姿です。

  また、「あなた方は世の光である」とあるのは、自分を目立たせるのが目的ではありません。大昔のことです。暗い家の中を照らすために、ローソクやランプがあります。暗い所を照らすには、自分を燃やさなければなりません。燃やせば自分はなくなり、やがて命が尽きます。命を与えて、初めて世を照らします。子育てだって同じです。自分を与えないで子育てはできません。

  「地の塩、世の光」とは、巨大な光として世を照らしたり、良質の塩として社会を味つけすることを意味しません。むしろ、小さい光、普通の塩でいいのです。特別ないい塩でなくても、普通の塩なら塩気があります。光は小さくても、光であれば日常の身の回りを照らします。

  イエス様は、今、周りに集まって来た大勢の群衆に、この山上の説教を語っておられるのです。色んな病気や苦しみや悩む者たち。悪霊に取り付かれた者や癲癇の者や中風の者などと一緒にいる群衆です。弟子たちも学問のないごく普通の人たちです。その普通の人たちが、イエスにあって生きる時、社会の中で「世の光」になるとおっしゃるのです。

                                 (4)
  今週、私たちは8月15日を迎えます。63年目の敗戦記念日、あるいは終戦記念日を迎える時、次のような「世の光」としての働きもあるかも知れません。

  最近の「福音と世界」という雑誌に、ロマン・バラバスというドイツ人の青年のことが出ていました。21歳の彼は、写真で見る限りなかなかハンサムな好青年です。彼は今、兵役拒否をして、ドイツから長崎に来て「岡まさはる記念平和資料館」という所で1年間ボランティアをしています。

  ロマン君が日本の青年たちに宛てて書いているのです。日本に来て1年になろうとしていますが、来て驚いたのは、若者たちはアジア・太平洋でかつて日本人が行ったことをほとんど知らないということだったと言います。しかし、ドイツでは、学校においてドイツが戦争中に行った歴史をきちんと教えて、戦争の恐ろしさを必ず学ぶんだそうです。強制収容所にも行って、現場で自分たちの父や祖父が何をしたかを、しっかり学ぶそうです。すなわち、自分たちの加害の事実を隠さず学ぶのです。

  現実こそ最も偉大な教師です。それを避けて、どうして真実な深い思想や人間観が育つでしょう。

  日本では青年たちも被害についてはある程度知っている。だが被害を与えたこと、加害の事実については殆ど知らないし、また政府は学ばせようとしないということに大変驚いているのです。

  彼は書いています。「ドイツと比べ、日本はなぜ、自分の加害の歴史を隠そう、隠そうとし」、小さく見よう、見ようとしているのか。そしてなぜ、「被害者に対する真底からの謝罪をしないのか。」このように書いて、「ドイツでは、大人たちも大虐殺の博物館に何度も足を運んでいる」と書いていました。現在、兵役拒否で、正式にドイツ政府に認められて日本に来ているドイツ人青年は9人いるそうです。互いに色々刺激しあっているそうです。

  私は、日本は、世界の中で「地の塩、世の光」になりうる民だと思います。それは、ロマン君が指摘しているように、自らの加害の歴史を素直に見つめて、真底から近隣の人たちにお詫びをし、悔い改め、その加害の責任を世に向かって、自分の意志で、明瞭に語ることです。国会議員は国民に先立ってそのことをすべきです。そのことによって、「地の塩、世の光」になれるでしょう。だが、自らの加害を枡の下に隠そう、隠そうとして、明らかにしないなら、「地の塩、世の光」になれないでしょう。

  私たちは、キリストから与えられた光を、人々の前に輝かせるのです。自分は失敗の歩みをしたかも知れません。だが、神の前に、悔いた心をもって言い表された失敗の告白は、恥ずかしいことだったかも知れませんが、変えられて光になります。私たちは人間です。失敗はあります。その失敗をごまかさないことが大事です。ごまかせば、ごまかしこそが真の意味での恥になります。それは、国際社会において国を辱しめることになります。しかし、その失敗を悔いて、率直に言い表すなら、キリストは私たちを「世の光」にして下さるのです。

  ペトロも他の弟子たちも、失敗を犯しました。罪にくずおれて泣かざるを得ませんでした。だが、その過ちを偽りませんでした。偽らなければ恐れることはありません。偽らず、ありのままの姿を真実に生きるなら、神様によって光に変えられるのです。

  挫折や弱さを、世の光として輝かすことができるのは、神によって特別選ばれた者にしか許されていないことです。キリストは、私たち日本人を特に選んで、「世の光」となる特別なチャンスをお与え下さっているのです。
          (完)

        2008年8月10日

                                         板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌの夕空を3つに別れて旋回する数千羽の小鳥たち。)