地の塩、世の光 (上)


  
                                            マタイ5章13-16節
                                 (序)
  イエスは、「あなた方は地の塩である。あなた方は世の光である」と語られました。「地」とは現実社会を指します。「世」とは私たちを取り囲む世界を指します。今日は先ず、私たちを取り囲む現実社会や世界について、聖書はどう見ているかを見て見ましょう。

                                 (1)
  この問題を都市の問題として考えますと、聖書の冒頭に置かれた創世記では、都市は幾分か不信の眼、疑いの眼をもって見られています。都市は、人類最初の殺人者となったカインとの関係で書いていることからそれは分かります。

  確かに、夜に、新宿駅前の伊勢丹のある新宿通りとか、あるいは歌舞伎町に入る青梅街道あたりに立つと、大通りに面して9階建てほどの細長い雑居ビルが無数に建っていて、一階から屋上に至るまで様々な原色のカラーのネオンが点滅して、心をゾクゾク刺激します。あれをけばけばしいと思う人と、美しいと考える人があるでしょうが、私はそこに立つと、全体として何か調和があるような、ないような、この世とも思えない美しさに、思わずしばらく見とれます。

  しかし、あの点滅するネオンは「世の光」でしょうか。「世の光」とは世を照らす光ですが、あれは、「見て、見て、私を見て!」と一斉に黄色い声をあげたり、「ちょっと寄ってらっしゃいよ!」と、甘い声で呼びかけている光です。男心、女心をくすぐる光です。私と同族の男どもがうまく引っ掛かる光です。「世の光」を装っていますが、あそこに都市の本性がいみじくも現われています。

  創世記5章を見ると、先ほど触れましたが、カインは人類最初の殺人者として登場します。彼は弟を殺した暴力的な男でしたが、このカインが都市を造った最初の人間だと聖書は語ります。

  暴力と都市です。他者を征服し、他者を滅ぼすことによって自分の地位を確立したのがカインです。その上で人々を自分の配下に集め、集団を組織して何かをなそうとする。都市には権力の集中があります。権力を集中させるには掟となる法が必要です。法を実行するには、それを破る者を懲らしめる暴力装置が要ります。また、都市を存続させるためには、その必要性を考える人間を育てること、すなわち教育が必要です。

  都市のために社会科学、人文科学、自然科学が発達し、芸術も発展し、むろん服飾も、料理も、美容も、全ての学問が発達したと言っても過言ではありません。

  ともかく、最初の殺人者が都市を造ったという聖書の発言は、非常に示唆に富んでいます。都市が駄目だと言うのではないのですが、都市に対する不信感があります。

  そして都市の建設で一番有名なのはバベルです。バベルの塔の建設です。創世記11章には、人々は「我々は、レンガを作ってよく焼こう」と話し合い、「さあ、天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言い合って、高い塔のある町を建設し始めたとあります。

  そこにあるのは、高度な技術力を結集し、人の力で天に達し、人々を支配しようとする人間の傲慢です。「天」は神の位置を意味します。神の領域にまで分け入って、神に取って代わり、自らの運命を切り拓いて行こうという人間の姿です。

  先日、インドで代理出産してもらった夫婦が、赤ちゃんが生まれた時には既に離婚していたというのです。しかも卵子は元妻のものでなく、別の女性のものだそうですが、精子は元夫のものだそうです。そのためでしょう。元妻は子どもを引き取るのを拒み、元夫とその母親はその子は自分ところの子どもだと主張して日本に連れ帰ろうとしているとのことです。しかし、インドでは独身の男性が女の子を養子にできないという法があるそうです。元夫は40代の医者だそうです。これは、今の日本社会の「最先端」にある人たちの縮図のような話です。

  一度聞いただけでは、理解しにくい話です。頭が混乱してしまいます。神に背いて、力ずくで幸福を手に入れようとする人間は、自然の摂理を捨てて、混乱の果てにムチャクチャになるのではないかと思ったりします。というのは、子どもをうまく育てられなかったり、手を焼いて愛情を注げなくなったら、どうするんでしょうか。結婚生活もうまく行かなかったのです。代理出産はお金があれば解決します。だが人間関係はお金では解決できません。

  バベルの塔の物語は、大昔から今日の都市の繁栄に至るまで、一貫して流れる、神を離れた人間の姿を象徴しています。人工的な知恵と技術を駆使して、本来の自然的な素朴なものを投げ捨て、富や文化や人の偉業を追求して力を持ち、有名になろうとする人間の姿ではないでしょうか。

  しかし、バベルとは混乱を意味すると創世記11章は書きます。聖書はバベルの姿を鋭く見抜いて、バベルは混乱の象徴であると語るのです。確かに大都市は心を一つにして町を建てているように見えます。しかし、新宿の雑居ビルがそうであるように、中身はバラバラで、混乱し、人の言葉をよく聞こうとする者は少なく、互いに人の言葉が聞き分けられないようになっている町です。

  だが、それとは違って、聖書にはむろん信仰者たちが登場します。彼らは、創世記12章から始まるアブラハムの信仰の足跡を踏む人たちです。彼らはアブラハムのように、神の言葉に耳を傾けつつ地平線を越えて旅をする人たちです。彼らが持っているのは、神を信じ、神に聞くという唯一の羅針盤だけです。

  彼らは、神のようになろうとするのでなく、神に従い、神に聞きつつこの世を旅する人たちです。

         (つづく)

        2008年8月10日

                                         板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌの16世紀に建ったセントラル・ホテルから見るホスピス・オテル・ディユの尖塔。)