神のヘセドとは (下)


                                          
                                          マタイ5章3-12節
   
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  しかし、旧約聖書には「憐れみ」を表わす「ラカミン」という言葉もあります。ラカミンは情愛をこめられた憐れみです。元は腸(はらわた)を意味しました。またお母さんの胎、母体を意味しました。従って、「ラカミン」の憐れみは、身ごもった子どもに対するお母さんの愛情、小さい子どもに対するお母さんの愛、実際に感情豊かな愛情などを表わす大変思いやり深い愛情です。むろん子どもに対する父親の優しさも意味しますし、兄弟姉妹の熱い愛もここに含まれます。

  そして、「憐れみ深い人々は幸いである」といわれるときの憐れみ深さは、親子や肉親に対して温かく愛すると共に、それを越えてもっと広い人々にこの憐れみは注がれていくものです。

  先ほどの交読した詩編103篇に、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」とありました。また、「天が地を越えて高いように、主の慈しみは、主を畏れる人を越えて大きい」ともありました。ここでは、神の愛と憐れみの広さ、大きさ、強さ、豊かさが言われています。神の愛は絶対性と超越性、永遠性をもって私たちの上に届いているということです。神の憐れみは最も神聖なものです。しかも同時に人間らしい温かさのある、最も卓越した慈愛の表現です。

  そこで、このような憐れみ深い人々は、神の最高の憐れみを受けるといわれているのです。

  神の憐れみに私たち人間は大きく包まれています。そして神の憐れみは私たちから離れることはないのです。ですからイエス様は、ルカ福音書6章で、「父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深くありなさい」と命じられるのです。

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  以上、「憐れみ深さ」の内容の多面的な姿を見てきました。すなわち聖書の「憐れみ」という言葉の内容の豊かさと広がりを見てきました。したがって、私たちも「憐れみ深い人」ということを狭い1つの定義で考えるのでなく、その豊かな広がりを大事にして行きたいと思います。

  そして大切なのは、先ほどのルカ6章の「父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深くありなさい」というイエスの言葉に励まされて、私たちが憐れみ深さを実生活で生きることによって、憐れみ深さの内容を人生において深めていくことが大事です。

  こういうことも憐れみ深さの1つでしょうか。先日クロネコ・ヤマトさんが来て妻が出ますと、Bさんに出した手紙が戻って来たと言うのです。郵便局だと郵便受けに入れて何も言わずに帰ったはずです。でもクロネコさんはドア・ホーンを鳴らして丁寧に説明してくれたのです。手紙をよく見ると、この宛名は「Aさん」の住所と書かれていました。それを届けようとしたクロネコのスタッフがメモしてくれていたのです。それで妻は、「すいません、『Aさん方』と書いて80円払いますから、もう一度届けてくれますか」と言ったら、「奥さん、結構ですよ、このまま上にシールを張って届けましょう」と言ってくれたそうです。憐れみ深いですねクロネコさんは。実に親切です。郵便局より繁盛しますよ。だって「憐れみ深い人たちは幸い」なんですから。

  私はこのことがあって、日本の社会が正常に戻りつつある気がして嬉しくなりましたね。

  先週の月曜日に、東村山にある特別養護老人ホーム白十字ホームで「お別れ会」がありました。入居中の7年間、ほとんど休まず「聖書の集い」に出席しておられた99歳のCさんが週末に亡くなられて、ホームでお別れ会をしたからです。

  末娘さんが弾くバッハのアリアのバイオリンで始まって、短いでしたがいいお別れ会でした。献花台には扇があって、流れるような達筆な字で百人一首が書かれていました。Cさんの書でした。

  Cさんは存在感のある方でした。ユーモアもありました。聖書の話が佳境に入ると「アーメン」と言ったり、意味不明の言葉で合の手を入れたりする方でした。妻が一度出席したことがあって、私の話の途中居眠りをしたんです。そしたらCさんが意味不明の言葉でウエン、ウエンおっしゃったんです。「あなた、眠っちゃあダメです。起きなさい」と注意したらしいです。それもその筈、お別れ会で初めて知ったのですが、Cさんは女子師範を出て40年間小学校の教員をご夫婦でした上、定年後自宅に離れを造って書道塾をご夫婦でなさったんです。道理で注意の仕方が板についていたわけです。夫に先立たれると教会に行かれるようになり、89歳で洗礼を受けられたのです。そして92歳から特養に入られました。

  棺にお花を入れてお別れした時、ホームに入居しているお年寄りたちが次々に訪れてお花を手向けておられました。老人ホームの普段の生活空間である、食堂兼ホールに面した一室でお別れ会があることに驚きました。ホームの方針で全員をお別れに寄こしているのではありません。自由に、来たい人が三々五々来られました。体が曲がって、杖を突きゆっくりゆっくり歩きながら来て、花をもらって棺に近づく人、車椅子で来る人や手押し車で来る人、ホームのスタッフに両手を引かれながら来た人、施設長さんに介助されて来た人など。みんな普段着姿です。

  これまでたどって来られたそれぞれの人生の旅路を想像させられるような、思い思いの格好でやって来てはお別れをして戻っていかれました。そこには、市井で行なわれる葬儀のようなお義理で来ている感じはなくて、それぞれが人生を深く考えながらお別れをしていると言った風景でした。その風景がとても心に残りました。

  後で施設長さんにお聞きしましたら、最近は死を忌み嫌うことがだんだん少なくなって、白十字ではこういうことが出来るようになったということでした。

  家族のように一緒に生活して来て、知らないうちに突然いなくなって淋しく思う人もあるからでしょう。やはり、幾つになっても、どこで生活していても、人間らしい心からのお別れをして、始めてその人との地上での関係を終えることができます。それがないとスッキリしない。モヤモヤしたものが心に残って、いつまでも癒されることがありません。

  「憐れみ深い人々は幸いである。」白十字ホームは、元々キリスト教信仰に基づいて建てられて、現在もその精神は生きていますが、「憐れみ深い人々は幸いである」ということは、生活の中でこういう形においても表現をとることができるのだと思いました。

  私たちもそれぞれの暮らしの中で、「憐れみ深さ」を深めて生こうではありませんか。神様の憐れみが皆さんの上に豊かにありますようにお祈りいたします。

            (完)

             2008年8月3日    
 
                                           板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌの中心街。)